狼と蝶 09
ひらひら、ふわふわ。
青い蝶は真っ直ぐにファルカの元に飛んできて、彼の目の前の書類の上に止まった。
ファルカが手を伸ばすと、蝶はひらりと軽く飛び、ファルカの手に止まった。
すると、彼の頭の中に直接、なまえが込めたメッセージが再生された。
「親愛なるファルカへ」
読み上げるのはなまえの声だ。
声を忘れたという訳では無いが音声付きのメッセージのおかげで、ファルカは鮮明になまえの声を思い出せる。
内容は、他愛のないものだった。
ファルカにすすめられて飲んだお酒が美味しかったとか、衣装が素敵だったとか。彼女が興味を持ったもの・好きな物の感想だったり、初めて見るその国特有の現象への感想だったりだとか。ファルカも見たり経験してきたものもあれば、そうでないものもあった。
メッセージから伝わってくるなまえが旅を楽しんでいる様子に、ファルカの口元も綻ぶ。
「それから、最後に。あなたの体はもう大丈夫かしら?問題は解決した頃?」
思わず、「あー……」と、ファルカから声が漏れた。やはり、気づかれていたのかと。
おそらくナド・クライにいたときは詳細まではなまえも気づいていなかったようだが、ファルカが何かをやろうとしていることは察していた。
そしてこういうメッセージを送ってきたということは、ファルカが相当な無茶をしたと言うのを何らかの手段で知ったということだ。
こうやってメッセージに込めてくるあたり、心配していたのだろう。今まで詳細を聞かないでいてくれたのは、ファルカがやろうとしていたことを知らないなりに配慮して触れないでいたのだろう。
なまえが知っていたなら止めただろうか?と少し考えたが、多少何か言うことはあれど、彼女なら止めないだろうとファルカは思った。
なまえは人の決意や覚悟を尊重できる女性だと、ファルカは考えていた。
(……モンドで会う時、謝らないとな)
「あなたにとって必要なことだったんでしょうけど」
やはり、配慮してくれていたようだ。
それに気づいていなかった自分もまだまだだなとファルカは考えながら、頭の中で再生されるなまえのメッセージを聞いていた。
「もう少し自分の体を大事にしてちょうだい。もしも次会う時に大事にしてなかったら子どもにするように……ふふ、やっぱり何をするかは内緒にしておくわ」
「……おいおい、何をするつもりだ?」
返事はないと分かっているのに、思わず苦笑しながらファルカは零した。
きっとこのメッセージを吹き込んでいたとき、なまえは楽しそうにしていたに違いないと容易に想像できた。ナド・クライにいたときから、なまえはファルカの反応を楽しんでいたからだ。
「――それじゃあ、どうぞ体に気をつけてね」
メッセージはここで終わった。蝶は変わらず、ファルカの手にじっと止まっている。
このハンカチが元になった蝶は、意外と高性能だ。
声は何個か保存しておける。それでいて、このメッセージのここがもう一度聞きたいと思えば、そこを再生してくれる。最初その機能に気づいたとき、ファルカはまたも驚いた。
なまえが説明してなかったのは、きっと驚かせたかったからだろう。
「……さて、俺も返事を吹き込むか」
何回かこうやってやり取りをしているので、ファルカはこの蝶にメッセージを吹き込む作業にも慣れていた。元素力をそっと蝶に注ぎながら、ファルカは口を開いた。
ひらひら、ふわふわ。
開けていた窓から入ってきた青い蝶に向け、なまえはそっと手を伸ばす。蝶は迷うことなくなまえの手へ飛び、そっと止まった。
蝶に対して指先から魔力を込めると、蝶はなまえの頭の中にファルカからのメッセージを再生し始めた。
同時に、開けていた窓をその場から動くことなく魔術でそっと閉め、鍵をかけた。
「――親愛なるなまえへ」
ファルカの声が聞こえてきたので、なまえは左手に蝶をとめたまま、右手で紅茶を飲む。
ナタからフォンテーヌに移動して2,3日してからファルカに何度目かのメッセージを送ってから数日、ファルカから返事が来た。人が運ぶよりも早い日数で届いたので、この蝶が見た目よりずっと速い移動性能を持っていることに、ファルカも気づいていることだろう。
いわゆる電話のようなものも作れなくはないが、なまえは自分がしばらく旅を楽しみたいのとファルカの肉体と魂の問題の件や遠征からの帰還などがあるので、暇がある時にメッセージを吹き込む方がいいだろうと判断したのだ。
「変わらず旅が順調で楽しんでいるようで安心した」
細やかな気遣いをするファルカらしく、なまえの状況に関する話からだった。甘さを捨てることも出来る人だが、やはりファルカは優しく大らかだ。そう思いながらなまえは、ファルカの穏やかな声が紡ぐメッセージに意識を傾ける。
他愛のない話をしたあと、ファルカは近況の話をする。
「それと、心配してくれた件に関してだが……無事解決したから、安心して欲しい」
あのメッセージを送ったあとしばらくしてから、解決したところがみえたのでなまえも解決したことは知っていたが、改めてファルカから報告を受けると安心した。その場にいなかったからこそ、ちゃんとこうして報告してもらえると安心する。そのあたりも分かっているので、ファルカはこうしてメッセージに吹き込んでくれたのだろう。
だがなまえが言わなければ、そのままファルカは言わないでいただろう。わざわざ心配させることは無い、と。それも配慮のひとつなのでファルカから言ってこなくても、なまえは特に怒ったりはしない。
ファルカがやったことに対して、敬意と驚きはあるが。
(魔神の魂の欠片を武器から人間の器に移しただなんて、とんでもない無茶をしていたわね)
ファルカが屈強で頑丈な体の持ち主とはいえ、魂や肉体は人間の範囲内の強度だ。そこに魔神の魂の欠片を短い期間とはいえ宿らせたというのは、自殺行為も同然だった。戻るための策と予備策も仕込んでいたとはいえ、普通はやらない。
その「普通はやらない択」をとれるのが、ファルカの強みであり、彼が道を切り開いてこれた理由なのだろう。
ファルカには言っていないが、なまえは狼の刺繍をしたハンカチにもしもの時の保険の魔術をかけていた。恐らく、風神バルバトスあたりは気づいているだろうが、彼がファルカにそれを言った様子はない。だからファルカは知らないだろう。
そのままお守り代わりになればいいとなまえは考える。
「だからもう無茶はしてないぞ。だけどもし……なまえから見て大事にしてないなってなったとして、だ。会った時に何をするつもりかは知らないけどな、お手柔らかに頼む」
「……ふふ」
半分冗談で言ったことに対するファルカの返事に、なまえは小さく笑い声をこぼしながらカップを置いた。
「本当に、可愛い人ね」
ファルカのメッセージは締めに差し掛かる。
「体に気をつけながら旅を楽しんでくれ。――モンドで会えるのを、待っている」
「……」
最後の言葉を吹き込んだ際のファルカの声を聞いて、なまえの頬が少し朱に染まる。
随分と熱っぽく甘く吹き込んでくれたものだ。
「これは……困るわね」
他の国の旅程も考えていたのにこんなことをされたらそれら全てすっ飛ばして、モンドに駆けつけてしまいたくなってしまう。――と思いながら、なまえはもう1度そこを再生するのだった。