獣になった少年

大人になりたかった。彼女の隣に立ってもおかしくないように。
大人になりたかった。弟ではなく男として見てもらえるように。
なぜ名前でなければならないのかは時透にも分からない。しかし、初めて彼女を見たときの衝撃は今でも忘れられない。全ての感覚が彼女に向かい、その瞬間、世界から彼女以外のものが消えた。
この人だと思った。そして、少ししてこれが恋だと気づいた。間違いなく初恋であった。
ただ、時透の初恋は淡いものではなかった。誰にも渡したくない、見せたくないという独占欲にまみれており、何に対しても興味を持てなかった自分にもこんな感情があったのかと他人事のように思った。

「無一郎くんは本当に可愛いね」

名前は時透に会うと決まって彼の頭を撫で頬を緩め、そっと甘い菓子をくれた。可愛いなんて言葉いらなかった。甘いものだってそこまで好きではない。ただだだ子供扱いされることが不満だった。
自分が名前と同じ年齢であれば、年が上であればこんな扱いはされないのに。
少しでも差を埋められるようにと努力をしたが、一回り近く違う年の差を埋めることはできず、名前にとって時透はいつまでも年下の可愛い男の子だった。


*



またこの夢か。手を伸ばし、携帯のアラームを止める。幼い頃から何度も見るその夢は、自分と同じ名前の、子供の頃の自分にそっくりな少年が、名前という年上の女性に恋い焦がれるだけの夢だった。思いを告げることもできず、不満を感じながらも彼女の望む弟のような存在を演じ続けた。
夢の中の女性は実在するのか、はたまた自分の妄想か。どちらでも構わなかった。どちらにしても自分には関係がないと、時透はそれ以上考えることをやめ、起き上がり、出かける準備をする。
最年少棋士誕生と世間に騒がれてから、約五年の月日が経ち、時透も今年で二十二になる。大学に通いながらプロ棋士として活動しているため、生活はそれなりに忙しく、充実していた。
今日は授業もなく、雑誌の取材が一本入っているだけだから、帰ったら詰将棋をしよう。約束まで時間があるからどこかで朝食をとるのもいいかもしれない。
携帯で今日の予定を確認し、ぼんやりとそんなことを思う。
恋人から連絡があったようだが、どうせどうでもいい内容だろうと確認せずにそのまま携帯を鞄にしまった。
今の彼女とは流れで付き合うこととなったが、予想以上に束縛が厳しく連絡をとることさえも億劫になっていた。女という生き物はどうして付き合うとこうも変わってしまうのか。前に付き合ったときもそうだった。
彼女たちは、どこにいたか、誰といたかと執拗に聞き、時透の全てを把握しようとする。
鬱陶しくなり、そんなに自分が信じられないのかと言ったら、泣かれてしまい宥めるのが大変だった。
もう無理だと思いつつ、別れ話をして以前のように泣き喚かれるのも面倒で、なんだかんだずるずると今も関係が続いている。

「はい、オッケー」
「ありがとうございました」

いい記事書くから楽しみにしててと笑う男性記者によろしくお願いします、ともう一度頭を下げる。この記者から取材を受けるのは数回目であったが、媚びずに自然体で接してくるその男を時透は好ましく思っていた。
プロになってからこういった取材を受ける機会が増えたが、最近では将棋の話題には一切触れず、写真を撮られプライベートについてあれこれ聞かれるだけのものもあった。仕事だからと思っても面倒に思うことも多かった。
記者も今日の取材はこれだけでこれから会社に戻るらしく、一緒に駅に向かうことになった。

「しかし、時透兄弟の人気は飛ぶ鳥を落とす勢いだね」
「そうなんですか?」
「あ、自覚なし?」

そういうところも人気な理由の一つなんだろうね、と記者は笑う。しかし、己の容姿が人より優れていることを自覚していない時透は、双子でプロ棋士というのが物珍しいだけだろうと結論づけた。

「っ、」
「時透くん?」

時透が立ち止まったことに気づき、記者も立ち止まる。不思議に思い振り返り、時透の名前を呼ぶが返事はない。
それどころではなかった。心臓の音がばくばくうるさい。
正面から歩いてくる女性から視線を外すことができなかった。全ての感覚が奪われる。世界から彼女以外が消えた。この感覚を自分は知っている。何度も何度も夢に見た。
あの人だと思った。自分は彼女のことを知らない。でも、知っていた。彼女の名前も、声も、笑った顔も、暖かい手も知っていた。
行ってしまう、考えるより先に彼女の手を掴んでいた。
彼女の瞳に時透の姿が映る。困っているのは明白だったが、時透は自分で自分の感情を、行動をコントロールすることができなかった。

「あの…?」
「名前、」
「え、」
「名前、教えて」

ようやく発した声は絞り出すような、ひどく情けないものだった。そもそも街中で突然知らない男に手を掴まれるなんてただの恐怖だ。頭では分かっていても、抑えることができなかった。

「名前、です。名字名前」

戸惑いながらも返ってきた声に、更に心臓が高鳴る。
やっと会えた。何度も何度も夢に見た名前に恋い焦がれていたあの少年は、やはり自分だった。

「今、付き合ってる人いる?」
「え、」
「あ、やっぱり答えなくていいや」

徐々に冷静さを取り戻し、名前に微笑む。
答えが何であろうが絶対に手に入れる。今度こそ絶対に。もう弟扱いなんてさせない。そんな余裕与えてあげない。
掴んだ手に少し力を込め、今度はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「君に恋をしました。だから今度こそ僕を選んで」

名前の頬が赤く染まる。可愛い。夢の中の自分は名前のことを綺麗だとは思っても可愛いと思ったことはなかった。
あの頃の自分とは違う。それが嬉しくて、時透は自分の頬が緩むのが分かった。


お題:秋桜