そう言うと母は一方的に電話を切ってしまった。抗議の言葉は母に届くことなく、電話口からはツーツーと無機質な機械音が聞こえている。
母の妹の息子である時透無一郎が大学進学を機に一人暮らしをすることになったらしく、色々と心配だから新しい環境に慣れるまで面倒を見てほしいという。面倒を見るの意味合いが様子を見に行く程度であればよかったのだが、一緒に住んでくれというのだから名前でなくとも困惑するだろう。
年が離れているとはいえ、年頃の男女が一つ屋根の下に住むということはそう簡単な話ではない。従弟とは言っても、兄や弟と同居するのとはわけが違う。
そもそも時透は了承したのだろうか。漸く親元を離れ自由になれるというのに何年も会っていない従姉と同居だなんてさぞがっかりしただろう。
どうにかできないかと考えたけれど、一度こうと決めてしまった母を説得することはおそらく難しいだろう。大きなため息を一つつき、諦めて部屋を片付けようと、重い腰を上げた。
定期的に掃除をしているので、そこまで時間はかからないだろう。掃除機をかけて、水拭きをして、と脳内でシミュレーションをする。
五つ年下の従弟と最後に会ったのはいつだっただろうか。
名前が大学に入学してからほぼ会っておらず、就職してからは一度も会っていなかったため、名前の記憶の中の時透は中学生で止まっていた。少しぼんやりしているところがあったが、顔は物凄く整っていた気がする。あの頃は自分よりも身長が小さかったが、今はどうだろう。
それにしても中学生だった従弟もこの春、大学生になるというのだから驚きだ。来週にはここに来るらしいけれど、ちゃんと上手く話せるだろうか。不安に思いつつも新しい生活に少なからずわくわくしていた。
「久しぶり、名前ちゃん」
想像の遥か上をいった従弟の成長ぶりに名前は驚いた。名前自身も身長が高く170近くあるが、時透は180くらいあるだろうか。人を見上げて話すことがあまりないせいか少し新鮮な気持ちになる。
しかし、身長は伸びても雰囲気は昔の時透と変わっておらず、少しだけほっとした。
「大きくなったね」
「うん、まだまだ成長中」
そう言ってふわりと時透が笑う。未成年とは思えないくらい大人びていて、名前は思わず見とれてしまった。肌は毛穴ひとつないし、長い髪は枝毛なんてないのではないかというくらい艶がある。意図せず謎の敗北感に襲われた名前は、時透にばれないように静かに肩を落とした。
名前が自分に対して謎の敗北感を感じているとは露知らず、時透は内心興奮していた。久しぶりに会った従姉は自分の想像よりもずっと綺麗で、ずっとこの日を待っていたのに緊張して上手く話せない。
今の大学に決めたのも、兄と違う大学にしたのも、全て彼女と会うためだった。
時透は名前が地元を離れ、会えなくなると胸にぽっかり穴が空いたような、そんな喪失感に襲われた。大好きな従姉は、自分にとって姉のような存在ではなく、特別な存在だったのだとそのとき初めて気づいた。
しかし、中学生だった時透には名前を追いかけて行くこともできず、今の自分に何ができるのか、自分はどうすればいいのか考えた。
きっと名前は自分のことを従弟としか見ていないだろう。自分を男だと認識してもらわなければきっとこの恋は叶わず終ってしまう。それは嫌だった。今、名前の隣にいるのが自分でないのは仕方ないが、最後に彼女の隣に立っているのは自分がよかった。
そして、時透は彼女の隣に立つ資格のある男になろうと決めた。その準備ができるまで、できる限り名前に会わないようにした。会いたかったけれど我慢した。勉強をして、運動もして、何でもできるようになるよう努力した。身長を伸ばすために食生活に気をつけ、成長ホルモンを出すために毎日夜の10時には寝た。できることは全てやったと自信を持って言える。
「迷惑じゃなかった?」
「迷惑じゃないよ。でも無一郎くんは一人暮らししたかったんじゃない?」
せっかく親から解放されたのにね、と苦笑いを浮かべる名前に時透はそんなことないよと返し、気遣うふりをして恋人の有無を確認した。残念ながらと名前が首を横に振ったので口角が自然と上がる。恋人がいてもいなくてもどちらでもよかったが、いないと聞くとやはり嬉しかった。
「無一郎くんこそどうなの?」
遠距離恋愛?とからかうような視線を自分に向ける。モテそうだもんね、と一人納得する名前の頬にそっと触れれば大きな目が更に大きくなる。
このまま抱き締めてしまいたい。このままキスしてしまいたい。このまま、押し寄せる欲に蓋をして、時透はくすりと音を立てて笑う。
「まつげ」
「え、」
「ついてたよ」
ほらっと指に着いたそれを見せると、名前はほっとしたような表情を浮かべる。
一時的な感情で動いてはいけない。ずっと待ち望んでいたからこそ慎重にいかなければいけない。時透は自分に言い聞かせながら再び微笑み、先ほどの名前の問いに対して心の中で遠距離恋愛がちょうど終わったところ、と返事をする。
いつかその時がきたら、きちんと自分の気持ちを彼女に伝えよう。そう思って漸く訪れた幸せを噛み締めた。
お題:子猫恋