寂しい夜を救って

※現代

一体私はなぜここにいるのだろう。なぜ楽しくもないのに笑っているのだろう。
ふと我に返り、なんともいえない虚しさに襲われる。
何が悲しくて金曜の夜に取引先の人間と酒など飲まなければならないのだ。突然、取引先の担当者から同年代だし親睦を深めようと誘われ、断るに断れず今に至る。
飲食代は会社の経費で落ちるとはいえ、残業代はでないし、無駄に馴れ馴れしくされるし、全く割りに合わない。
来るんじゃなかったとビールを口にする。すっかり泡が消え、ぬくるなったビールはいつもより苦くてちっとも美味しくない。社会人になって五年になるが、未だに酒の美味しさだけは理解できない。
いっそ酔ってしまえば楽しくなるのかもしれないが、どうやら自分は人より酒が強いらしく今まで一度も酔ったと感じたことがなかった。
世間でいくら男女平等を唱おうとも、飲み会の席ではお酌をするのも、飲み物のお代わりに気を配るのも女の役割で、それができないと気が利かないと言われてしまうのだから嫌になる。
自分の都合が悪くなると男女平等を口にするくせに、こういうときだけ女としての役割を強要するから仕事の飲み会は苦手だ。
取るに足らない会話を下らないと思いつつも、仕事がやり易くなるならばと先輩や取引先の機嫌を伺い、相手が喜ぶ言葉を口にする。話を聞かずとも大概のことは、流石ですね、すごいですと言って微笑めば乗り越えられた。
酒を飲むペースも落ち、先輩も取引先もだいぶ出来上がってきたのを見計らい、そっとトイレに立ち、少し休憩しようと空いているカウンター席に腰を下ろす。
金曜というだけあって、店内はそれなりに賑わっており、様々な会話が行き交っていて少し騒がしい。静かなところに行きたいと叶わぬことを思う。

「何か作ろうか?」

声をかけられ顔を上げるとそこにはものすごく顔の整った男がいた。白銀の髪と宝石のような赤い瞳が印象的で思わず見とれてしまいそうになる。だからこの店には女性客が多いのかと一人納得し、ウーロン茶を注文する。

「つーか、戻らなくていいのかよ?明らかにあんたに気があんだろ」

バーテンの視線を辿らずとも誰のことを言っているのかすぐに分かった。
親睦を深めたいなんて嘘だと始めから気づいていた。仕事に託つけなければ好きな女を誘えないあの男はきっとあちらの席からチラチラとこちらを伺っているのだろう。

「仕事を使って誘ってくる男には興味ないから」
「いーね、惚れそうだわ」
「軽っ」

思わず笑ってしまった。いつの間にか素の自分に戻っていることに気がついた。純粋な子がこんなイケメンに惚れそうなんて言われたらきっと顔を真っ赤にして好きになってしまうんだろうな、と的外れなことを考えながら、時計を確認すると9時半を過ぎたところだった。
そろそろお開きにしてもいい時間だろう。明日は久しぶりに何も予定がないから思いっきりだらだらしよう。
そんなことを考えているとバーテンの顔がぐっと近づいてきた。

「近いよ」

そう言って右手でバーテンの頬をぐっと押せば、なぜか楽しそうに笑っている。無性に腹が立ち何がおかしいのか聞こうとしたが、相手を喜ばせるだけな気がして言葉を飲み込んだ。
そして、背中にこの男に好意を寄せているであろう女たちからの突き刺されるような視線を感じ、勘弁してくれと名前は大きくため息を吐く。ただでさえ疲れているのに面倒ごとはごめんだと元の席に戻ろうと立ち上がれば、男の手が自分の中の手首を掴んだ。

「俺、今日11時で上がるんだけど」
「残念、私はもう帰る」
「釣れねぇな」

五年前の自分だったらこの男の纏う独特の色気にくらりときて流されてしまったかもしれないが、遊びで誰かと付き合うエネルギーはもう名前にはなかった。

「3Bは絶対に無理」

今すぐ結婚したいわけではないけれど、次に付き合う人とはきちんと結婚を視野に入れて付き合いたいと思っていた。
人の仕事をどうこう言うつもりはないが、3Bと呼ばれる美容師、バーテンダー、バンドマンはモテるから付き合うと苦労するとよく聞く。
最近ではここに舞台俳優を加えて4Bなんていうらしいが、とにかくバーテンダーは名前にとって恋愛対象ではなかった。

「私は公務員と結婚する、堅実が一番」

男を突っぱねるために男と正反対の人間を口にしたのに、なぜか男は満足そうに口角を上げた。男の笑みの意図が分からず名前は首を傾げる。

「俺、4月から先生になんの」
「何の?」
「学校の」
「絶対嘘」

こんな教師がいてたまるか。
というか来年教師になるということは、この男はおそらく私より年下ということで。一人混乱していると、男は目を細め、耳元に口を寄せる。

「俺にしとけば?」

不覚にもときめいてしまった。顔にばかり目がいって気づかなかったが、この男の声は反則だ。自分の頬に熱が集まるのを感じ、慌てて手を振り払った。

「年下のくせに…!」

精一杯の悪態をつき、元の席へと向かう。遊びなのか本気なのか男の真意はよく分からないが、やられっぱなしは性にあわない。
とりあえずまず名前を聞こう、それから。
いつの間にかそれまでの沈んだ気持ちは消え去り、これから起こることを想像し、少しわくわくしている自分がいた。



お題:3秒後に死ぬ