シンプルベイビー


 わたしはわたしと同じ言語で話す人を見たことがない。八つのわたしは、それ以前の記憶がひどく曖昧模糊としていてお母さんの顔はおろか、自分の名前すらはっきりと覚えていなかった。
 わたしが発見されたのは故郷(存在しているのか甚だ怪しいが)とは違う異国の地だったようだ。怪我をして倒れていたわたしを助けたのは言葉に詳しい学者さんだった。
 彼は『言語マニア』というものらしく、幾つかの国の言語でぺらぺらと私に話しかけてみたりしたし、希少言語というひどくマイナーな言葉も幾つかマスターしているようだった。

 意思疎通が難しい。でも方法がないというわけではないし、わたしは若い。彼が身振り手振りで私に教えようとした事は数を重ねるごとに理解できた。
 彼は自分の胸を指して繰り返し言う。

「『ジン』」

 このひとはジンという名前か普段からそういう風に呼ばれているということなんだろう。

「『レディ』」

 そして何日かしてわかったことは、彼はわたしの事をそう呼んでいるようだ、ということだ。

「『レディ、』『ミルク』」

 マグカップに注がれたそれを飲むようにと彼は促しているのだ。

「『リソ』?」

 その言葉をわたしなりに頭のなかの単語と照らし合わせてみる。

 レディ……はわからない。単なる愛称かもしれないし、固有名詞なのかもしれない。

 ミルク……これは私の言葉で言うと『リソ』牛の乳だろうな、たぶん味からして。

 それであってる?と訊いたつもりだった。にこにことしている彼を見ると、伝わっているのか定かではないけれど。

「本当に君はどこから来たんだろうねえ」

 何を言ったかはやはりわからないけれど、この人はたぶん、いいひとなんだろう。私は黙って『ミルク』を飲みほした。





 次の日。彼のお友達がたくさん来た。彼と同じ『言語マニア』らしくて、わたしに幾つかの国の言葉で話し掛けてきた。そのどれもわたしは理解できなくて『うーん』なんて唸っている。

「君、この子はどこで倒れていたんだ?」
「僕の家の少し先さ。怪我しててね」
「ううん……。言葉が通じないのに保護者がいないというのも考えにくい。それにこの子、わりと裕福な家の子供だろう。体重は標準、血色もいい、落ち着いているし」
「捨て子の線はなさそうだよねー。事件性を疑うよ」
「だろうな」

 わからない言葉で自分の事を話されるのは正直気分が悪かった。でも不思議なのが『うーん』とか『ええっ』とか、そういう反応の仕方はどこも同じなんだなってこと。わたしも考え事をしているとき『うーん』とか『むう』とか言ってしまうから。

 夕方になると『ジン』の友達は帰って行った。たぶん、みんないい人で、わたしの頭を撫でたり手のひらいっぱいに飴玉を落としていったりして、でもやっぱり疲れる。

「レディ」

 彼が呼ぶ。わたしは彼のシャツにしがみ付く。

「疲れたかい?」

 レディ、ツカレタカイ。

 耳はただそうとだけ音を私に伝える。意味がわかったら良かったのに。彼がなんとわたしを呼ぶのか。どういう意味で呼ぶのか。知れたら、

「レディ、ツカレタカイ」

 わたしは彼の言葉を繰り返す。ん?とジンが言葉を漏らした。

「レディ」

 ママがいないのよ。パパもいないのよ。いるかもしれないけど、わからないの。おぼえてないの。ジンは私の言葉がこうでなかったら、わたしのことなんて見捨ててしまうんでしょ。

「ジン、ジン」

 この国の言葉を教えて欲しくなんかないのよ。わたしこのままがいいの。

「ジン『ミルク』」

 ジンが微笑む。嬉しそうに。嬉しそうに。

 だってミルクの一言で微笑んでくれるなんて、きっとあなたしかいないんでしょう。



2013.08.19


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