ぼくとわたしと混ざりあう、

どろりとした深い冬の海が、私をいざなう。あゝ何も怖いことなんてないのよ。私の足首に、赤い糸を括り付けて。そしてそれを貴方の足首に結びましょう。そうしていつか二人で沈みましょう。此の海へと。


私よか籠の鳥の方が如何程には幸福であろう。鳥は所詮、鳥であるのだから、苦痛も感情も人間の其れには及ばない。約束の履行など期待しない。感情の行き場を無くして殺すこともない。鳥の纏う羽毛は鳥を拘束したりはしない。私のように、着るものすら選択肢の無く、やれ今日は洋装だ和装だなどという拘束具で息もつけないなどという事も無い筈だ。

「さあ、どうか貴女の其の美しい指先が。声が。瞳が。どうか僕にだけ向けられるようにして下さい。僕は、僕ができる限りの事をして貴女を仕合わせにして見せましょう」

あの方はそう仰ると、両親の目の前で私の手を取り気障に口付けてみせた。商家の三男坊であるあの方は華族である私の家を金で買おうとしているのだ。所詮一山当てただけの成金よと言われるのを嫌い、此の男は私を手に入れ生家の格をあげようとしている。そして私は家が没落するのを、見て見ぬ振り等出来ないのだから、この男のアクセサリィとして買われて行くしか無いのだろう。

「ねェ、小夜子。きっと希われて逝くのは幸せだわ。でも、請われて往くのは違うわねえ。でも仕方が無いのよ」

そう言ったのは私の女学校の友人だった。

友人はお嫁に行くと言って学校を辞めた。卒業するまでに縁談が来るのは大変栄誉な事であるしご両親もさぞ喜ばれた事だろう。女学校を卒業するまでに縁談が来ない『卒業面』等と言われる不細工は、不名誉であるし本人も居心地が悪いに違いない。

何はともあれ、私の元にもこうして縁談が来た。私は私を金で買おうとしている此の男を知っていた。隣町の学校に通うプレイボウィだそうで、時折すれ違えば女学校の生徒達はひっそりと其の白い頬を淡く染めていた。

両親はそんな事実も知らず、二人でキネマでも観ておいでなどと言い、私達を家から出した。今頃縁談が上手くいきそうだと言うことを互いに喜んでいるのだろう。

「ねい、小夜子さん。僕はあんな台詞をご両親の前で吐いて良かったんだろうか」

むう、と難しそうな顔をして佑太郎は顔を顰めてみせる。そんな彼の顔が可笑しくて私はくすくすと笑いながらお礼を言った。

「ありがとう。佑太郎さん」

彼は私が頼んだ通りの台詞を両親の前で言ってくれた。私の両親ときたら、キネマやオペラが大好きで、こう言った芝居がかった恋愛が大好きなのだ。単純で可愛らしい、とても非道い人達なのだ。

「小夜子さんとのお付き合いも、もう三月になるね」

そう。私は此の男を知っていた。縁談が来る前から友人を通して知り合って、そして少なくとも親しいと言える程度には関わりがあった。

私は知っている。
少なくとも女学校の少女たちよりかは此の方の事を。例えばプレイボウィだと云うのは概ね事実だと言うこと。例えば大して莫迦では無いということ。例えば、私と同じような《お人形》だなんて言うことを。

彼の家のような商家は勿論、後ろ盾が必要だ。例えば私の家のような華族が血縁にいれば、方々に幅を利かせやすくなる。然し乍らさらに大切なのは横の繋がりなのだろう。
現に彼の長兄は商家の娘を嫁に貰い商売はさらに安泰だと云う。そんな中、私を此の三男坊に嫁がせれば更に良いと此の家の者は考えたのだ。

「僕は君を好ましく思うよ。優しいところや、僕を理解してくれるところ。僕は本当に君が好ましい」

佑太郎はこう云うところがプレイボウィなどと言われるれるが所以なのだと思った。タチの悪い事に本人に全くその気がないのだ。

「さよさん」

ぽつりと落とすように彼は私の名を呼んだ。すうと長い腕が伸びて彼のカフスボタンが少しだけ頬をかする、其の指先が私の髪を結わえていたリボンに触れる。「曲がっていたよ」と彼は笑う。

「ごめん、カフスが擦ったかい?赤くなってしまった」

心配顔で彼は、今度は親指の腹で私の頬を撫でる。指はそのまま耳までなぞり、最後に唇に少しだけ触れた。

「良い人だね。小夜さんは」

目を反らす。私は私を見て笑う此の人の貌を正視できやしない。内側から熱がせり上がる。行き場を無くした熱が、吐息に混じる。ばれないように、そっと静かに熱の隠る息を吐き出す。ただかあっと頬が染まる。何も知らず、此の人に焦がれた唯の女学生と変わらぬように。唯、瞳を伏せて彼の手が頬の上から過ぎ行くのをじっと待つ事しかできない。

屈託無く笑う此の人が好きだ。此の人は私を好ましいと言い、私は此の人を好きだと思う。人が見れば何と幸福な縁談よと笑うのだろう。
でも私は知っていた。彼はもう長くない。
ごほりと喉に絡むような咳を零せば、血痰が混じる。数年もてば良いと言われていた。私の両親も、彼の両親もその事を知らなかった。私と彼の秘密だった。

「僕もね、両親の役に立ちたかった。君と同じだよ。あんな、金に目が眩んだ両親でもね、僕は愛してるんだ」

君もそうだろう?
言われて私は頷く。頷いて、笑う。

愛してる。どんなに嫌いな服を着せられても、拘束束縛監禁、なんでもござれ。オペラのような過激な愛を、キネマのような淑やかな恋をと、そんな夢物語を愛する彼等を愛してる。
没落せんとする、我が一族を娘ひとつ差し出して、そうしてまで矜持を抱いている惨めな彼等を、どう仕様もなく愛してる。

「君をアクセサリィとして買う僕を赦してくれるかい?」
「ええ、赦します。鳥よか私より幸福であろう。そう思って生きて来ました。でも私はこの不幸な身の上を幸福としていきたいのです。不出来な両親を愛していたいのです。たっぷりと愛しているぶんだけ、恨みは深いのです。むくりむくりと首を擡げる、この恨みつらみに蓋をしてください。そしてどうか私を連れ出して。あの人達の愛した美しい娘の侭でいさせて欲しいのです」

ねえ、お人形同士何かの役に立てるといいね。

私たちはそう願って結婚した。




それから数年間を経て佑太郎はどんどん弱っていった。私は彼に寄り添い、彼は私を見て笑った。

「小夜さん、今日は一緒に寝ようか」
「あら、あなた。珍しいお誘いですね」

くすりと笑うと彼も笑う。私達には子供ができなかった。だから何時までも恋人同士のようでもあった。
私達が結婚し、私の生家は財政を立て直した。彼の家は私の家の名を使い、色々と商売の幅を広げて益々繁盛しているそうだ。

私達はもう役目を終えた。要らない人形はふたりで終わる日を待つだけだ。

「小夜子さん、おいで」

手招かれるままに、私は彼の布団に潜り込む。ぎゅうと彼にしがみつくと詰まっていた呼吸がほどけていくようだった。

「ありがとう」
「何がですか?」

ぴったりと彼の胸元に寄り添っても、其の鼓動はひどく弱々しい。

「僕は沢山嘘を付いてきたよ」

例えば君をアクセサリィだなんて言った事。君と同じように両親に愛憎入り混じった思いを抱いていた事。

「知っていましたよ」

ぎゅうと抱きしめられて、涙が溢れる。
ごほ、ごほと彼が咳き込む。口の端から血が伝う。

「私はそれでも幸せだったのです」

口付けて、彼の血を吸う。こうして溶け合って混じり合って、そうして夜を越えましょう。
貴方が死ぬ一日前になったらふたりで海にでも沈みましょうか。

そう言うと彼はまた笑う。

「あゝ其れも良いなあ。そうしたら寂しくないんだろうねい」

ぼくとわたしと混ざりあう、二月の真ん中、夜明けの淵。いつか終わりの日が来たら。ふたつの人形が仲良く海に沈むだろう。

赤い赤い糸を結んだまま、昏く深い、冬の海に。



title and word by hakusei

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