summer diary
どこまでも広がるこの空は君のもの。夏草の茂るこの地を駆ける足も、吸い込む青い香りもなにもかも。
ここに僕が在ったように、きっと君はいつかこの地へ還る。
明るい太陽の下、二人で歌った異国の歌。僕だけはその歌詞の意味を知っていたよ。
すべてはこの夏の日に。
*
7月15日
「彼と暮らすのよ。遠くへ行くわ」
だからもうここでは暮らせないわ、手紙をちょうだいね。そう言って、君は僕がとても字が下手くそなことを笑うんだ。適当に雑な言葉を詰め込んだ手紙は、いつだって気恥ずかしい思い出にしかならないって思うから、僕は手紙が嫌いだ。
「いやだよ、手紙なんか嫌いだね」
『知ってるわ、だからよ。』そう返ってきた返事はいつもと同じ、あの歌のように明るかった。
7月16日
テレビディナーってなんでこんなに脂っこいのか。プラスチックの容器にバターナイフを使って押し込んだようなハッシュポテトとオリーブで焼かれたチキン、申し訳程度のグリンピース。600wのレンジで一分五十秒。これにコーラを添えて、君の好きな歌番組を見よう。
かしこまって洒落たメニューとカクテルなんか出した日には、君は腹を抱えて笑うんだろうから。
あの歌番組、なにが面白いって実は司会者のトークなんだけどね!
7月20日
段ボールが積み上がっていく君の部屋を僕は眺めてる。
彼女が電話で話してる。弾んだ声が言った。
「愛してるわ、またね」
7月21日
親愛なる僕のルームメート。君との友情は永遠だ。少なくとも、君のなかではね。
7月23日
人は自分にも肩書きをつけるよね。僕の場合はこうかな『彼女の友人』あと、これも付け加えたい『彼女が大好きな臆病者』ってね。信頼されるって愛されるのより辛いのかもしれない。君が「愛してる」って言った相手だって僕を信頼してるんだから。
7月24日
段ボールの積み上がった部屋で、君はピアノを弾いては上機嫌で歌ってる。
なんていうか、迷惑。
僕まで巻き込まれて歌わせられる。
――Why do you love me?
Love is hear
7月27日
グラスのなかの氷を噛み砕くのと同じくらい、簡単な恋の終わらせ方を僕は知っている。それをしないから、臆病者なんだけど。
――どうして私なんかあいしてくれたの
愛がここにあったからさ
7月29日
辛くないふりをするのなんか簡単なんだって、気づいたのは大人になってからだった。祖母の葬式の日に、まだ幼い僕は悲しい事があったんだなくらいしかわからなくて、でも寂しいって気持ちから泣くことは簡単にできた。
祖母を愛していた母は、いつも綺麗に引いていたノワールのアイラインとマスカラを汚す事無く気丈に振舞っていたように思う。今思えば、その方が母は楽だったんだ。
泣いて、崩れて壊れてしまよりはね。
8月1日
彼女の部屋からピアノ以外のものはほとんどなくなった。
「あいしてるわ」
電話の相手にそう甘く囁く声が聞こえる。
「早く一緒に暮らしたいわ」
僕はこんな時こそ、ピアノをがんがん弾いてもらいたいよ!
8月5日
もうすぐさようならだから、出かけよう。
君の友人としての誘いを僕は断らなかった。
ベーグルにトマトソースとチキンを適当にはさんだ即席サンドをポシェットに詰め込んで、バイクで二人乗り。
目的地は、決めずに。持つのはわずかな小銭だけ。
夏の薄氷を落としたような、薄い空。
僕の後ろで彼女が歌うのは、あの、異国の歌。
8月10日
どうして私なんか愛してくれたの、っていうあの歌を教えた彼は優しい奴だと思う。
返答が、愛があるからなんてスイートじゃないか。
そういうセンスが好きだ。
だから奴と僕は親友なんだろうな。
8月11日
痛いって思う。
親友と好きな女が付き合うとか良くある話だし。恋愛対象として見られないなんてもっとよくある話。
僕は何も踏み出そうとはしなかった。
ここは箱庭だ。
ピアノの音、君の笑い声、適当なランチ。くだらないテレビ。
そんなものが僕の理想で、幸福の庭だなんて、たいがいに痛いね。
8月14日
いつも彼女と過ごしてた場所がある。二人だけじゃなくて、親友も、他の友人も一緒に。妬けた色をした小麦色の草原で、鷹が空を旋回してる。そこで暗くなるまで待って、ランタンの灯りを灯して星を観る。
君はほそい美しい声で、歌をうたう。
僕があの日、君に教えた異国の歌。
君がその意味を知ることはないだろうね。
『夏は終わり、君は去る』
僕がどんな想いであの歌を歌ったのかも、きっとそれは永遠に箱の中に仕舞われたままだろう。
開かれない箱の中身はぐちゃぐちゃでも構わない。きっと今の僕たちにとって、大事なのは箱を覆う包装紙やリボンの色だろう。
箱の中で腐敗していく真実は、それはそれで良い。
僕だけが知っていれば、
そして憶えていればいいだけの話。
それだけの、はなし。
*前 しおり 次#
back to top