色のない世界と木曜日

 弾くことは私の呼吸だった。
 なのに穴の空いた肺と同じくらい役に立たない自分の指にもはやなんの感情も浮かんでこない。

「君の演奏には華がないね。感情がこもってないよ」

 だからいつまでたっても幼稚だと、そういわれたような気がした。
 
 十二月半ば。時刻は午前二時五十分。
 冷え込んだ部屋で、暖房もつけずにその現実と向き合っている。
バイトして必死に貯めたお金で買った電子ピアノにヘッドフォンを差し込んでそれでも私はまだ、鍵盤の前で茫然としている。『本物のピアノと同じ鍵盤の重さ』が売りの電子ピアノを、レッスン室で使う本物のグランドピアノと比べるのが間違いなんだろうな、なんてぼんやり考える。

「なんであんなに鍵盤重いんだろう」

 実際なにか造りが違うんだろう。グランドピアノはアップライトピアノよりも鍵盤が重く感じることがあるとはよくきく。
 小さい手。短い指。三番と四番の指はまだ神経が独立していなくて、速い曲が苦手だ。トリルも汚い。
 所詮英才教育だといって、私に鍵盤以外の生き方を教えてこなかった親元から飛び出しても私は結局ここに戻ってきてしまう。

 ――華がないね。

 先生の言葉を思い出して、茫然として、でも泣くことも笑うこともできなかった。

「知ってる、そんなこと」

 何を見ても、何を聴いても、旨く心が動かない。譜面を見て機械的に演奏をこなすことはできても『華』と呼ばれるそれにはとくと縁がなかった。

「眠れないなあ……」

 狭い椅子の上で無理矢理膝を抱えて座る。気持ちは揺れるでもなく、溢れるでもなく。それなのにどこか心に高ぶりを与えているらしく身体と脳が直結していないようで――不快でぎんぎんと気を冴えわたらせてしまう。
 アルコールも、カフェインたっぷりのコーヒーも紅茶も昔から好きではなかった。気持ちが高揚することはないくせに。

 私は感情表現がへたくそだ。絵を描いたって、ピアノを弾いたって、それこそ友人と喋ってたって、感情を表にだすのが、にがて。
 私と話してもつまらないでしょう?だからみんな嫌そうな顔をするんだ。

 水の底に沈んだ石のように、私はただぎゅっと身をすくめて心の中では『おねがい!もうほっておいて!』って叫んでる臆病者だ。
 ぎゅっと圧縮された『感情』と呼ばれるそれは凍り付いて死んでしまったに違いない。

「眠れない、眠れない、眠れないのは、きらい」

 だって本当はつらいんだ、もう。もう、考えるのはいや。泣けないのに、怒れないのに、笑い飛ばす勇気だってないくせに考えることしかできないなんて、もういや。

「……なにか、飲もう」

 レンジでチンして、ホットミルクをつくる。蜂蜜を少しだけ垂らす。
 マグカップを掴むとかじかんだ指が少しだけほぐれた。

 吐いた白い息が、湯気と混じる。

「だって仕方ないじゃない」

 弾くことは私の呼吸だった。拙くたって、私は懸命に呼吸した。
 鍵盤を、叩く。ただ叩く。
 私はこれで、たくさん喋ってるつもりだった。
 
 弾くことはパズルみたいだ。ばらばらな音が集まり、法則を得て『曲』となり、そうして意味を成すように。

 ゆっくりとミルクを飲み干す。冷え切った身体の芯を、じわじわと熱が溶かす。
 瞼が熱くなる。瞳が潤む。もう、どうでもいい。ピアノなんて嫌いだ。

 ようやく滲み出た感情が、あんなにも愛してたピアノへの嫌悪なんてあんまりだ。

「きらい」

 鍵盤に指を這わせる。音を叩き付ける。短い指のせいで届かないオクターブも、汚いトリルも知った事か。ピアニッシモもアンダンテも、知った事か。

 泣きながら、指を走らせる。強く!激しく!痛く!苛立ちもなにもかもをピアノへぶつけた。ヘッドフォン越しの音が、耳を叩いた。

 どれくらい弾き続けたかわからない。

 どれだけ泣いたんだろう。ぐしゃぐしゃの顔をパジャマの袖で拭って、私は乱れた息を吐き出した。

「なんでよ……なんでなのよ」

 どんなに泣いたってね、これが私の呼吸なの。
 どんなにつまらなくても、私は喋ってるの。
 けなされて、ばかにされて、いらないって言われても。

 私にはこれしかない。
 あなたしかいない。

 ホットミルクが溶かした私の涙腺は、ゆるゆるとそこにいた友人に気づかせる。

 白黒の鍵盤にそっと頬を寄せて、泣く。
 私がどんなにしゃべっても、嫌そうな顔をしないのは、君だけだった。

 君、だけだった、ね。


END title 彼女の為に泣いた

嘉多さん、リクエストありがとうございました。

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