永遠の回廊

私の娘が異人の男と心中した。あの子は奇天烈な娘だった。
海辺で娘と異人の男は手を絡めあって死んでいた。男の上にしなだれ掛かるように寄り添って、事切れた娘はとても幸福そうに微笑んでいた。

ざあああ、ざあああ、ざあああん、

波が飛沫を上げる。娘たちの亡骸の周囲には警官たちがいて、野次馬を追い払っている。私は涙が出てこない自分が不思議だった。

「奥様、娘さんに間違いありませんか」
「ええ、私の娘です」
「お気の毒です」

警官の言葉に私は首を振る。
不思議と私の心は凪いでいた。

「いいえ、この子を憐れむことはしません」

娘の事を話すには、まず私の夫について話さなければならない。

他人を陥れながら事業を拡大し、それでいながら小心な夫は精神を病み、そして末には忌物に憑かれた。狂気の渦のなかで、己のみを愛し他者を虐げた父親を娘はたいそう愛していた。

「貴女はもう、お父様にお会いするべきではないわ。丁度縁談が来たのですよ。良い方の所へお嫁へお行きなさい」
「何故です?私はお嫁になど行きません」

ある日私がそう諌めると、娘は眉を顰めただけだった。

夫が田舎の別邸に隠居し始めてから、娘は足繁くそこへと通いつめていた。お父様、お父様と、娘を愛していない男を慕い、本邸には何ヶ月も帰ってこないこともあった。遅くに出来た子で、私はあの子を愛していた。愛していたから、狂気に囚われ得体のしれないものに憑かれた父親とは離れていて欲しかった。
女は三界に家なし。でもそれはそれで幸福になれることもあるのだと、あの子に教えた。
止まり木がなくとも、そして例え囲いの鳥だろうと、甘く熟れた果実を与え続けてくれる人がきっと居るのだと。



ある日、私も娘と共に夫の暮らす別邸へと向かった。
いくら夫が狂気にーーそして忌物に憑かれていようと、私は妻なのだ。たとえ、愛されておらずとも。私にとって夫の顔を見に行くことは義務に等しかった。

別邸に着くと、娘は荷物の整理もそこそこに、父親の元へ向かった。

「お父様。お久しぶりです。お加減は如何ですか」
「……黙れ。この愚子が」
「貴方、せっかくこの子が心配して……」
「良いのです。お母様。さあ、お疲れでしょう。甘いカステイラとお茶を用意致しますから、別のお部屋に移動しましょう。お父様、ごゆっくりおやすみ下さいませ」

娘は傷ついた様子も見せず、私を部屋から連れ出した。

お茶を飲みながら、私はさてどういうことだろうと考えた。この子がどうしてあの男を愛しているのか、さっぱりわからなかった。

「貴女はどうしてそう、お父様が好きなの」

娘は煎茶で喉を潤しながら瞳を細めてみせた。血色の良い赤い唇が弧を描く。

「お父様は美しいではありませんか」
「美しい……?」

夫の姿を思い浮かべても、その言葉はもっとも縁遠いものに思えた。

「姿形ではありません。お父様は世界を憎んでいます。御自分を産んだ母を、家を継がせた父を、その親が用意した妻も、娘もなにもかも」
「だったら……」
「お父様は己から逸れません。憎いものは憎いのです。情を抱くという選択肢すら殺して真っ直ぐになにもかもを憎んでいるのです。そう、まるで鳥が飛ぶことしか知らぬように。或いは肉食獣が草食獣を屠るように」

娘は湯のみに付いた紅を指先でついと拭った。
いつも氷のように凍てついた揺らがない瞳が、暖かい光の色に蕩けていた。

「一つのことしか知らぬ無垢さが、美しいのです」



*



最期まで私はあの子を理解できなかった。異人の男は夫の忌物を祓おうとして結果的に夫を死なせ、自身の主人まで亡くした。然し私はほっとしていた。これであの人はもう誰にも迷惑をかけずに済むのだから。
異人の男とその主人とは、忌物を祓う際に何があってもこちらに責任を問わないという契約を交わしてあった。

娘は異人の男を憎むかもしれないと危惧していたが、違った。
あの子はいつでも私の予想を超えることばかりする。

愛すべき父親を亡くしてもあの子はいつも通りだった。虚勢を張っているのではなく、本当に何一つ日常を変えなかった。
いや、ただひとつ違うことがあるとすれば。

父親以外の男を愛するようになった。

あの、父親を殺した異人の男を。

あの男の内臓を拾い、腹におさめ、布を巻き、髪を梳いて。ただ穏やかな顔をして側にいた。

「貴女、少し変わったわね」
「……そうですか?」
「ええ、少しだけ。瞳が優しいわ」

あの凍てついた瞳は相変わらずだったけれど、ほんの少しだけ緩んでもいた。娘は何があっても動じず、また感動もしない。この世と家族を憎んで生きていた父親を最愛にして最期まで想っていたことだけが、彼女の変わらない真実だ。

『一つのことしか知らぬ無垢さが、美しいのです』

あの子は父親のことをそう評したが、それは娘にも言えることなのだと、私は思った。

娘は憑かれていた。父親を愛するという何かに、憑かれていた。

この子は忌物ではない。でも、この子はきっと色んな意味で人間ではなかったのだ。

ざああ、ざあああ、

波の音が私を現実に引き戻す。

私は見開かれたままだった娘の瞳をそっと閉ざす。

「貴女、幸せになれたのね」

どうか最期は人間のままで。
勝手で奇天烈なこの子をそれでも私は心から愛していた。

「ありがとう」

異人の男に向かって囁いた。

この子を人間に戻してくれて。普通の子のように愛してくれて。

ああ、我が子よ。
貴女を死なせた男に感謝する私を恨むなかれ。

そしてどうか我が子よ。
いつまでも幸福に。

どうかどうか、幸福に。


2016/08/16

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