埋れ水の蛍火

 ただそうして、貴女がなにひとつ赦す事が出来ないとひとり、泣いたように。





 夜だ。優しい夜。

 夏の月は濁り無く、煌々と明るい。空気は暑いが頬を撫ぜる風は何故かひんやりと冷たく、青年に心地良さを与えた。夜の闇も、色を薄めた黒の天幕を下す夏だけは優しい気がするのだ。夏草が日中の陽に妬かれてただ香り、方々の家で焚かれる蚊取り線香の紫煙と混ざりあいながらその香りをぬばたまの空へ還す。

 あちらこちらの門前で、人々が火を焚いている。今日は、盂蘭盆の最初の夜。

「迎え火、か」
「早いものですね、季節の巡りは」

 傍らで同じくそれらを眺めていた少女が淡く微笑んだ。

「貴女は、しないのですか?」
「火種がありませんもの」

 麻幹を焚く人々の顔はそれぞれだ。優しい微笑みであったり、懐古に沈み切なげであったり、いかにも義務としてやっているだけだというように淡々とした顔であったり。

「火種、ね。そんなもの、家に戻れば幾らでもある」
「要りませんよ、私は」

 瞳を細めた少女に青年はほんのすこしだけ嘆息した。頑固なのだ、この娘は。
「迎えてやらねば、気の毒だ」
「帰ってこないものを迎えること等できません。この世に無いものを、手に入れることは叶わないでしょう?」

 優しい瞳はいつだって硝子玉だ。モノを映すだけ、光を透かせば光るのに、ただそこに在るだけでは価値など見出せずに。

「貴女は、亡くなった彼が好きだったのでしょう?」
「好きだからこそ、ですよ」

 焔が溶かした闇の合間は曖昧な色合いを見せる。黒でもなく、朱でもなく、それでも溶け合った光と闇は淡く、美しかった。

「光は闇を喰らいます。しかし、闇もまた光を喰らうのです。両者の関係は対等にして等価ですよ。溶かし合い、薄め合い、喰らい合い、殺し合い。共に立ち上がる事もできない関係になんの意味があるのですか。死者はこちらに干渉しない。生きてる人間も干渉できない。なら、迎え火など意味がないではありませんか」
「それはあまりにも極論ですね。干渉しないが故の共存、というものが人間にはあるでしょうに」
「『干渉しないが故の共存』それが出来ないから、ひとはひとを求めるのでしょう?」
「そうですね。でも貴女の言い方はまるでそれが悪い事みたいだ」
 青年が瞳を細めて笑う。この猫のような青年は、きまぐれで美しくしなやかで、いつだって薄情だと少女は思う。

「わかってますよ。私が屁理屈ばかりこねて、素直じゃないことくらい」

 少女は子供のように口を尖らす。それが妙に愛らしくて、青年はぷ、と小さく吹き出した。

「わかっていながら、あんたを可愛いと思う俺は悪い男ですかね」
「ええ、とっても」

 彼女は面白そうに瞳を細めた。

「でも、きっとあのひとも幸せだったのでしょうね。貴方がそんなふうに接して、友人でいてくれたから。だから、私はとても感謝してます」
「そうですか。そいつは良かった」
「あの人が自ら命を絶った日。貴方が傍にいながらなぜ、と責めたのを覚えていますか?」
「……さあね」
「気が違っている、と他の人はみな彼のことを言いました。疲れきって、あんなに頑張って、必死に必死に生きる彼にみんなはただそう言うだけで……だから私は安心したんです。貴方がいてくれて」

 少女は顔を覆う。

「だからこそ。あの日貴方が死のうとする彼を止めなかったことを、責めました。でも赦せないと泣いた私を貴方は赦してくれましたね。人殺しと、そう責めても貴方は謝らなかった。それは彼を、憐れまないでいてくれたからでしょう?」
「さあ」
「感謝、してるんですよ。今は。彼が幸せだったかどうかは私にはわかりません。でも、私は貴方と笑う彼の姿を見れて幸せでした。私は自己満足も甚だしい、本当に、彼のことなんて少しもわからない駄目な人間でしたけど。でも――ありがとう」
「俺は、何もしてません」
「もう……今でこそ言える言葉なんですから、もう少し愛想良く受け取って下さいな」

 くすり、と青年は笑う。

「貴女こそ、随分と素直になったものですね。……さて、どうします?火種を取りに戻りますか?」
「迎え火は、しませんよ。あのひとはこの世にはいません。お葬式も、法事も、迎え火も、それらはみんな生きている人間の為のものです」
「そうですか」
「そんなの、あんまりじゃあありませんか。全然あのひとの為なんかじゃない。だからしません。迎え火なんてことは」
「頑固な女ですね、貴女は」
「ええ、」

 くすくすと笑って少女は青年の手を取った。

「暑いから、西瓜でも切りましょうか。井戸で冷やしてあるんですよ」
「今年は良作らしいですね」
「そうらしいですね。今年はいつまで居られるのですか?」
「盆明けまでは居るつもりですよ。しかし……そろそろ貴女も屁理屈捏ねて俺を困らせるのをやめて下さいね」

 握り返された手に、自らもほんの少しだけ力を込めて少女は問う。



「ねえ、そんな風に困る貴方を見て、可愛いと思う私は悪い女でしょうか」



 青年は闇を弾く猫の目を細め、闇に溶けない髪を揺らして笑った。

「ええ、とっても」

 ねえ、確かに貴女は意地っ張りで、口ばかり達者で、困る俺を見て微笑む可愛くない女だけど。俺は彼が大切にしていた貴女のこれからを見届けようと思う。
 だからただそうして、貴女がなにひとつ赦す事が出来ないと泣いたように。誰にも見られぬようにと、ひとり泣くと言うのならば


 そのしずくを、
 ほんのりとあたためるやさしい焔で在りたいと、願う。


 埋れ水の蛍火の、ように。


(090714)120508 title by 庭


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