バニラ

 父は異形と相成りました。

 父よ、世を怨みながらの死こそが貴方に相応しき最期で在りました。

 然しながら父よ、

 貴方を殺した男を愛した私を、怨むなかれ。




 例えば世界の正論が其処に在るとする。正論と謂うよりは寧ろ『在り来たりで当たり前な事実』。無から有は生まれない。働かなければ食べていけないし、手を伸ばして包帯を掴まなければ血は流れたまま。

 逆を言えば、現実的にも精神的にも『刃物』を『持たなければ』傷つく事は無い。其れこそが世界が最後に与える優しさだ。すべては自業自得。

 己の放り投げた問いが跳ね返って自分にぶつかるだけだ。





バニラ

(髄まで喰らえ、喰らいて嘆け)

香 に は 甘 く
舌 に は 苦 い









「俺は恐れて居るのですよ。人間の思惟と謂うものを」

 浅葱の着物を纏った彼は、ごく普通の青年に過ぎないと少女は思う。着流しの合わせから覗く肌には包帯が巻かれていた。月明かりに照らされた其の顔は青白く、然し凛然とした気高さだけは損なわれることは無かった。

 細められた青年の蒼瞳から其の意趣を読み取る事は出来なかったが、まあ良い。彼は其れを自分の為に口にしている。

 彼女について。そう。彼答えて曰く――恐ろしいのだそうだ。

「では、貴方はずっと独りで居ると謂うのですか?誰とも交わらず誰の体温を知る事も無く、私の気持ちを知りながら、私にだけ其の様に内心を吐露して。そして可哀想に想った私が貴方に手を伸ばせば、要らないなどと謂うのでしょう?」

 言葉に伴わず、其れは優しい糾弾であった。

 潮風がふたりの髪を煽った。眼前に広がるは蒼茫たる海原。其れは少女が愛している青年の瞳と同じ色。そう、青年はそれはそれは珍しい蒼瞳をしていた。只、海を見ても深夜の今、其処に在るのは青年の心の闇を引き延ばしたような黒い水ではあったが。

 然しながら人を救うのはいつだって世の事象で、ヒトは『ヒト』に優しくない。其れでも、彼女は気難しくも気高い此の男を愛していた。

 ふむ、と少女は思う。彼と暮らして三月。良家の娘が夜中に男と連れ添って歩くなど、様々な噂を立てられていることだろうと思う。でも致し方無い。私は此の青年が好きなのだ。

 此の男は、忌物――鬼や物の怪などの退治を生業としているらしい。二尺四寸の金鞘の太刀を持ち、妖怪、異形となった人間を切り殺している。街で噂の華族仕えの美しい男だった。

『行き倒れていたのを拾ったのだ』という世間への言い訳は勿論嘘。少女の父が異形と生ったせいでとばっちりをくらって仕舞っている此の男を少女は匿っているのだった。少女の父は、華族界でかなりの発言力を持つ人物だったのだから彼の華族仕えが難しく為って仕舞ったのにはそれなりの理由が在ったわけだ。

「貴方は浅葱色がよく似合いますね」

 あの日、父の血を全身に浴びて立っていた青年を思い出しながら少女は謂った。

 彼の纏う色だけは人で在りながら他者に牙を剥かず、優しい。

 彼女の唯一絶対。 然れど少女が其の想いを口にすれば青年は必ずこう答えるのだった。

『然に非ず、故に幻想』

 青年に謂わせれば人の思慕など夢にも等しいのだ。其れに対して少女は落胆も見せずに笑う。

「貴方は、正夢と謂うものを知っているのでしょう?幻でも良いではありませんか。醒めぬ夢の様に優しい嘘もあるのです」
「俺は偽物等、欲しくない」
「では、何を以て偽りとしましょう?逆こそ問えば、真実とは何なのですか?」
「……其れ、は」
「其れこそが『ヒト』の心。末は――思惟でしょう?」
「思惟ならば可愛いものだ。然し、私意を以て他人の思惟を穢すべきではありません」

 思惟を用いて恣意を貫き、そして私意に因って『ヒト』は皆死ぬ。

「ねえ。私この前お芝居を観たんです」

 突如と方向転換された会話に青年は訝しげに首を傾げた。きょとん、とした其の顔が可愛らしいなどど少女は考えて、笑う。

「洋装をした、紳士さまが愛する女の人に言うのです。

『レイディ、貴女はどうしたら信じてくれるのですか』」

 私が触れて形に致します。貴女が恐れる其の音、其の温もり、要らぬと謂うの為らば私は一生其れを身の内に抱き、貴女には示しません。だから、教えては呉れませんか。


「『どうしたら、貴女は私を愛して下さるのか』」
「……」
「『彼女』は、何て答えたと思います?」

 少女の瞳は穏やかだった。返答など期待していないのは明白で、其の答えは己が内に在るのが見て取れた。
 青年が首を振ると、少女は身を翻してその海水へと素足を浸した。月光を透かし、浜まで薄く延びた波は透明な色で砂を撫でて鮮やかな貝や細やかな砂粒を残していく。袴の裾が濡れるのも構わずに、彼女は大きく伸びをして空を仰ぐ。優しい空は鈍色ですらない射干玉の闇。


「『殺して下さい』」

 はっと青年が息を呑む。ざああ、ざああ、と波が行き来する音だけが響く。少女は静かに告げた。

「驚いたでしょう?貴方が初めて私に言った言葉と、同じ」

 そして少女は芝居の科白を朗々と語ってみせた。

「『嗚呼、私は此の躯を愛せませぬ。此の体温、此の息遣い、此の喉から零れる音。全てが醜く、全てが憎いのです。
私は私を愛せませぬ。生きているが故に生きている『ヒト』を愛せませぬ。』」

 少女の声は、ただ澄んで微笑んでいた。

「『だから私を殺して下さい。私が私を愛せるように。そして己を愛することが出来た其の時に、私は貴方を愛します』」

 少女は水に浸していた足を翻して、青年の許へと戻る。少女の香と潮の香りが入り混じって、青年の鼻孔をくすぐった。

「貴方も、私に其れを望むのですか」






 父は異形と相成りました。

 異形を切り捨てた男は、其のハラワタや体液、そして己の血にまみれ酷く憔悴していました。 倒れ伏し、然し滲むは安堵。 泣くことすらせずに事の顛末を見届けた少女が青年に問うたのです。

 ――助けて欲しいのか、と。

 嗚呼、青年は悲しいかな笑いました。嗤い哂い笑うのです。

『どうか、俺に死を。あたたかい人間の手で、其の最期を与えて下さい』





「私が其れを与えれば、貴方は私を愛して下さいますか」
「ええ……」

 青年は初めて少女に手を伸ばす。優しく髪に触れてやがて壊れた笑みを浮かべて其の耳許へと囁いた。

 旅路の果てが安寧とは限らず。然し俺は疲れて仕舞った。忌物を斬り、異形と生った人を斬り、斬って斬って斬って其の体液を纏い、剣舞数だけ死は訪れる。

 赦しなどは請わぬから。 己の体温を愛せずに、 己の息遣いを愛せずに、己の音を愛せずに。ただ己を厭うていよう。
 そうして生きる自分に相応しい最期をと、そう願っていた。

 其れでも此の少女だけは自分を愛してくれた。大事にしてくれた。傷に布を巻き、髪を梳き、あたたかい微笑みを与えてくれた。

 だからこそ、


「どうか、俺が貴女を愛せるように、其れを与えて下さい」

 少女は微笑んだ。

 そして午前二時、其の首へと手を伸ばす。 男はゆっくりと瞳を閉ざす。


 涙を流し、

 漸く手に入った安寧を

 大事に大事に抱き締めて―――


090622(101106)

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