その日

 その日、髪を染めた。

 幼い頃から、疑問に思っていたことがある。ドラマや漫画などでよく見かける『失恋をしたから髪を切る』という行為だ。髪を切ったからどうなるというのだろう?髪にはある種のまじないでもかかってるというのか。不思議に思った私は、幼いながらにそう考えた。でも何か違う気がする。

 疑問を母にぶつけると答えはあっさりと返ってきた。

『ほら、気分転換になるじゃない?』

 なるほど、妙に納得したのを覚えてる。


 ザーッとシャワーから流れる水が染髪料を落としていく。無理やり染められた髪は、指通りが悪くきしきしとした感触だけを残した。

「……」

 仕方ない。他人に触らせるのは嫌だった。だから自分で染めた。乾かせば緑の黒髪は跡形もなく安っぽい茶色になった。

 黒髪が好きな元彼への嫌がらせみたいなものだった。触られるのが嫌いだった長い髪は染めるのには染髪料を二本も使わなければならなかった。

 くだらない。
 本当にくだらないけど、こうしないと自分が保てないのも事実だった。

 でも髪を切るには至らなくて、染める程度で済む恋だったんでしょう。

いつか、髪を切らなければやっていけないほどの恋をするだろうか。

 ――正直ごめんだ。

「迷惑な話ね」

 セブンスターに火をつけて、嘆息する。
 濁るような甘い甘い紫煙の香り。あのひとは煙草が嫌いだった。それを気にもせず、煙草を吸う私にいつも顔をしかめて。私はそんなあのひとがなんだかかわいらしくて、いとしくて。
 でもそれを表に出すことはなかった。煙草もやめなかった。男のために自分の好みを変えるような甲斐性は私にはない。可愛くない女上等だ。

「これが、譲歩よ」

 安っぽい茶髪に指を絡めて笑う。あなたの嫌うものを、私は纏う。

 でもね

「色を変えてしまう程度には好きだったの」

 その程度のお話。


12.01.14


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