そうして何もかも

 そうして忘れられない何もかもを引き連れて、生きてゆくというのですか。
 女は、静かに問うた。男は笑った。畑に水をやる手を休めることなく、煙草を食みながら言う。

「『普通』って言葉におまえさんは何を思い浮かべる?」
「平坦、平凡、停滞、マンネリなどでしょうか」
「ま、ちがいねえな」

 くく、と男は喉を鳴らしてやはり笑う。後ろでスーツを着込んだ女は眉をひそめた。

「なにか可笑しなことを言いましたか」
「いんや」

 そろそろ仕事に戻って頂かないと、皆が困ります。道楽社長に秘書は言う。

「普通ってのはな、誰かの非日常的なものの上に成り立ってるもんさ」
「……」
「俺が仕事をさぼってこうして畑に水をやるのが普通…日常だとする。でもお前ら部下にしてみりゃ、迷惑極まりないだろう」
「自覚していたなら良かったです」
「お前らはイラついたり心配したり不安になったりもするだろう。でも俺は、ここに水をかならずやりにくる。雑草も抜く。肥料だってやる。仕事をさぼって」
「仕事をさぼらなければ誰もあなたを諫めたりはしません」
「だろーな。でもそれじゃ意味がねえ。俺は『仕事を抜け出して』水をやりにくるのが好きなわけだからな」

 ホースから飛散する水が、虹を描く。女はそれを眺めながら呟いた。

「あなたが、こうして畑を作り、水をやるのは何故ですか」
「さあな。あえて言うなら、昔を振り返るためか」
「感傷に浸りたいからですか」
「そうとも言うな」

 男は畑に存分に水をまき、蛇口を止める。短くなった煙草から紫煙をくゆらせながら、呟く。

「例えば、俺がここでのんびりしているのが他人にとっては苦痛の種となるとする」
「ええ」
「何が他人を苦痛にしてるかなんて本人にはわからねえ。ま、俺みたいに自覚してるやつはいるよ。でもな、大抵の場合考えて日常を送る奴なんていねえ」
「そうですか?」
「俺くらいトシ食えばわかるよ。お前も」
「言ってることがおっさんくさいです」
「おっさんだからな」

 ふーっと煙を吐き出し、男は空を見上げた。

「喫煙者と非喫煙者。騒がしい奴と静かな奴。行動的な人間と知性的な人間。比較すれば日常なんて驚くくらい真逆だ。その真逆な人間同士一緒にいるとなると必要なのは……」
「我慢ですか」
「だな。自分のアタリマエが他人には通用しない。逆もまた然りだ。なら、普通っていう日常は他人の我慢によって成り立ってるもんだ」
「……平凡こそ実際には非凡ということですか」
「お前が言うとなんつーか堅いな。でもまあ、そんなとこだろう」
「社長は、それを思い出しにここにくるのですか」
「そ。俺の平凡な人生を謳歌するためにな」

 何もかもを思い出し、普通という平凡な日常を与えるために苦痛や己のアタリマエを我慢してくれたひとのために。

「社長、時間です」

 秘書は男の手を引く。いつもはピリピリとしているこの女も、今日は妙に優しかった。

「ありがとよ。俺の日課に付き合ってくれて」

 ――さて、仕事すっか。

 今度は俺が付き合う番だ。
 仕事に誇りを持つ、お前の日常とアタリマエに。

 それもまた、悪くない。けっして悪い気はしないのだ。



12.03.11

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