返し水

 泥水なんて啜らなくて生きていけるなら、それに越したことはないと思ってた。

 苦労は買ってでもしろという。経験を積めという意味でなら頷けるけど、悲惨な体験をしろというならまた違うだろうと。
 啜った泥水が血液を汚し、血管を侵し、こびりつく。 息を吸って肺が広がって血が巡るたび身体が言うんだ「一生、一生消えることはないよ。お前の啜った泥は」と。

 ああ、でも棺を前にして思ってる。安らかな貴方の顔。幸せだと言った口。穏やかな目尻。起こさないでねと言いそうなくらい優しい優しい貴方の死に顔を見て、それでも私は思う。

 もし私が一生泥水を啜って生きれば、貴方が一生死なないとして、私が悲惨な思いをして、貴方が死なないとして。それが叶うなら。

 一生、泥水を啜って生きるのも悪くないよ。

 そんなこと貴方は望まないだろうけど、私はさよならなんてしたくなかった。穏やかな寝顔の貴方を叩き起こして怒られたい。

 でもまた気づく。貴方の啜った泥水で私は生きていて、泥は私で涙は水。

 貴方が泥を啜ってくれなければ、泣くことすらできなかった。

 だから貴方に返す水は、あたたかなものでありたい。


 そう、在りたい。


12.11.25

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