あだしが原にて願うことは
俺が初めて殺したのは俺の組の宿で春を鬻ぐ女だった。
名を小春という。
俺より少しばかり年上の色の白い娘で、笑うとえくぼが浮き上がる丸い頬が可愛らしい女だった。
『凪さん』
彼女は俺の事をそう呼んだ。宿の女は大切な商品のひとつであり、とにかく長持ちするのが良いに決まっている。『続くこと』は大切なのだ。人の命も、商品も。
そんな心持ちから俺は部下に指示をして、宿の商品たちにできる限り良い食べ物を与え、良い着物を与えた。
優しくしているつもりはなかった。
彼女らを世話する自分は家畜を管理するのと相違ないのだと自分でも思っていた。
それでも女たちは――俺を見れば気軽に挨拶をしてくれるようになった。
「貴方がそうして女たちに優しくするのは何故ですか」
楓がしかめ面で問うのに俺はこう答えたと思う。
「居心地が良ければ逃げようとは思わなくなるだろう」
つまり――続くこと、なのだ。
「なるほど……」
納得はしても軽蔑すらしないのは、楓も同じ生き物だと言うことなのだろう。それでも彼はこう続けた。
「しかし、あまり度を過ぎないようにして下さい。下手な情けは無用ですよ。彼女らは商品ですから」
「わかってる」
そう応えた。
そのはずなのに、やはり俺は莫迦だからいろいろ間違えていたのだろう。
ある日、宿に視察に行くと小春が仕事部屋として与えられた私室で泣いていた。
「どうした?」
「なんでもありません。少し客の当たりが悪かっただけです……」
そう言う小春の頬は赤黒く腫れていた。唇は切れている。客に殴られたのだろう。
俺はすぐに宿番の親父に客の名簿を当たらせ、その客がこの宿に来ないようにするように指示を出した。それから控えていた楓に傷薬と軟膏の手配をさせた。
「凪さん……どうして、そこまでして下さるんですか」
「……これが俺の仕事だからな」
他の女たちも同様に怪我や質の悪い客に捕まっていないか宿番に確認させる。ある程度は我慢してもらう他ないが、あまりに怪我をさせるようでは商売に支障がでるからだ。
「薬をお持ちしました」
楓が帰ってきたので薬を受け取る。そして指先に薬を取ると、小春の頬にそっと触れた。
「薬を塗るから、じっとしていてくれ」
「は、はい……」
小春の頬にさらに赤みが差した。春を鬻いでおきながら、初心な女だと思う。そしてどうにも――可哀想に思えて仕方がなかった。
こんな男に優しくされて、道具のように見られているとも知らず、親切心だと信じて疑わない小春を。
腫れのひどい頬に軟膏を塗り終えて、今度は切れた唇に触れた。小春はびくりと身体を震わせる。丁寧に薬を塗ってやり、手を拭うと俺は彼女の頭をそっと撫でてやった。
「怪我をさせて済まない。客の管理がなっていなかったようだ。もう少し気を付ける」
「いえ、平気です……」
「それじゃあな、大事にしてくれ。行くぞ、楓」
楓を連れて宿を出る。後ろでため息が聞こえた。
「あれじゃあ、勘違いする女が出てきますよ。ほどほどにしてやって下さい」
「そうか。気を付ける」
「あまりに甘やかしてぬるま湯に慣れさせると、今度は逆境に耐えられなくなります。人は簡単に壊れてしまうものですよ。優しくすれば長持ちするかといえば、違うんですからね」
楓の言う通りだった。
小春は親に売られた女だったが、道具のように扱われる事に疲れたのだろう。ある日、衝動的に逃げ出した。当然、宿と組の者で捜して追いまわし、結局最後に小春を捕まえたのは俺だった。
「凪さん……私はもう疲れました。どうか勘弁してください」
そう言って、彼女は頭を垂れた。
「凪さんは、いつも優しくして下さったじゃないですか。それは、私の事を――私達のような女を心配して下さったからじゃないんですか」
心配。
心配はしていた。憐れだとも思っていた。
それでも、小春の言う言葉と自分の思いが妙に噛み合わないのをどこかで感じていた。
「お願いです――凪さん、どうか、見逃して」
歳もそこそこで、純潔もなく金もなく、疲れ切った女。そしてここで連れ戻されれば死ぬよりも辛い折檻を受けることだろう。
それがどうにも憐れに思えて、俺はその場で小春を斬り殺した。
「なぎ、さ……どうし、て――」
それが小春の最後の言葉だった。
どうして?
そんなにおかしいことだろうか?
彼女は生きる事に疲れ切っていたのだ。それに加えて暴行を受けるなんてあまりに憐れではないか。
そんな親切心からだった。
しかし、後から来てその惨状を見た楓は言った。
「やはり、貴方は酷いことしますね」
見開いたままだった女の瞳を彼はそっと閉ざしてやりながら、言葉を続けた。
「貴方の優しさは、残酷だ。そして傲慢ですよ。思い上がりもいいとこだ」
そう言われて初めて、俺の思う『優しさ』と他人の思う『優しさ』が大きくずれている事に気づいた。
しかしそれが今更何だと言うのだろう?
その異常性が――此処で生きていくのには不可欠だった。
俺は部下に指示を出し、小春の遺体を沈めた。
姐さんと今いる、この場所に。
***
何故、今になってそんな事を思い出したのか。俺にもわからない。
『人を幸せにしようだなんて、思い上がるんじゃないよ』
ただ、そう言った姐さんの言葉と顔が何度も思い出されて、繰り返し浮かんでは消えていく。
小春のあの最期を、俺は悔いたわけではないけれど。
もしかしたら、ちゃんと『人』を幸せにしてやりたかっただけなのかもしれない。傲慢にも。それがどんなに常人と噛み合わなくても。
人が好きなのに、人を道具扱いするその矛盾。そんなちぐはぐな自分がどうしようもないくらい――ああ、正直に言えば嫌いじゃない。それが俺の歪みなのだろう。
「姐さん」
「なぎ、なぎ――ねえ、好き、すきだよ……」
そんな俺を、好きだと言ってくれる――姐さん。
本当の名前すら知らない、この人の口から零れる『好き』というその言葉の、なんと甘美なことか。
抱きしめて、口づけて。それでもどこかに空いてしまう隙間がもどかしくて堪らなかった。
隙間なく、肌を触れ合わせていたい。触れ合わせた部分から、溶けてひとつになってしまいたい。そんな衝動さえ、殺すのももどかしい。
この人を幸せにしたい――できないなら、自分の思い通りにしたい。
何度も湧き上がるそんな矛盾ですら、どうしようもないくらい愛おしくて、俺は正しく今、この人に恋をしているのだと思った。
なぜ好きだといいながら、この人は泣くのか。
俺も好きだと気付いていながら、離れていこうとするのか。
「なあ、姐さん、泣かないでくれ。そんなに泣かれると堪らない」
「むり……だって止まらないもの」
えぐえぐとしゃくりあげながら、姐さんは俺の胸に顔を埋めた。そんな貴女も可愛らしいけれど、ああ、でもいつものあの不遜な笑顔が見たいな。
怖いものなどないのだとでも言うように、世の中のすべてを知り尽くしているかのように、諦めたように、でも楽しそうに――そんな風に笑う貴女がやっぱり好い。
だから、もう一度きちんと抱きしめる。
細く、柔らかく、あたたかい。
ただ寝るよりも、口づけるよりも、ただこうしているのが一番心地よいのかもしれない。
「なんで、そんなに泣くんだ?」
「――あんたが好きだから」
「俺も好きだから問題ないじゃないか」
「だから余計、別れが辛い」
彼女ははっきりとそう言う。
「何故、離れる必要があるんだ?」
「決めてしまったから」
彼女は乱暴に涙を拭うと、俺をぐいと押しのけた。
「私は私の為に死んだたった一人の為に、生きていくと決めたから」
「……そうか」
今なら、少しだけわかるような気がした。
小春を殺してから、もう数えきれないくらい人を殺めてこの池にもたくさん沈めた。
それでも一番最初の人は――忘れない。
憐れな小春。
信じて好いていた相手に殺された小春の絶望は如何程なものだっただろう。
俺は彼女を楽にしてやるつもりで、更に苦痛を上乗せしただけだったのだ。
そんな簡単なことにも気づかずに生きてきた。
「そうか、姐さん。あんたもか」
一番最初の、特別なひと。
あんたは言葉でたくさんの人を殺め。
俺は刃で多くの人を殺した。
感傷など忘れてしまってもおかしくないのに、自身の異常性に気づかせた最初の人に、執着している。
恐怖――している。人と違うことに。
「姐さん。この場所な……俺が一番最初に殺した女を棄てた場所なんだ」
「……女」
「そう、女。俺はその女の事、いつも可哀想だと思っていたよ。だって道具だったんだ。誰にとっても」
「ひどいね、あんた。喋っている内容も、そんな場所を逢引きに選ぶのもほんと最低だよ……」
姐さんが呆れたような――でもどこか、どうでも良さそうないつもの調子で言う。
「でもなあ、大事にしていたつもりだった。恋とか愛とかそういうんじゃなかったよ。でも、菓子を持っていけば大げさに喜んで、怪我の手当てをしてやれば顔を赤くして。可愛いなとはいつも思っていた」
「……」
「でもそれも、犬猫にするそれとかわらんのだろうなあ。いや、それ以下なんだろう。せいぜい、気に入りの道具の手入れをするような――そんなもんだったんだろう」
「ひどいね」
「友人にも言われたよ。でも、まだどこかであの結末が正しかった気がしてならない。だから俺は歪んでいる」
あんたと同じように。
「こんな俺が――死にたくないなんて言う権利、ありはしないのにな」
離れてしまった姐さんを、もう一度掻き抱く。
「幸せになる権利も、誰かの幸せを願う権利も、普通に生きる理由もなにもかも無いのに。俺はこんなにも――あんたが欲しい」
「なぎ、」
「あんたが泣くと辛い。笑っていて欲しい。でも、時々猛烈に泣かせてみたい。怒らせてみたい。傷つけて、痛めつけてみたくなる」
すり、と彼女の頬に自分の頬を摺り寄せる。
「最初の女は、此処に沈めた。だからあんたを最後にして、此処に沈めてしまいたい」
「……ひどいね、あんた。本当に、ひどい。言ってることも支離滅裂だし、ほかの女と一緒に沈めたいとか無神経だし、頭おかしい……でも、」
互いに合わせた頬に、姐さんの涙がじっとりと馴染む。
「それも良いかな」
姐さんの両腕が俺の背中にまわる。
「兄さんが私にそうしたように、凪、貴方を私が縛れるならば。貴方が最初に殺した女のように、私が最後に、貴方を一生傷つける事ができるのならば――殺されてあげてもいいよ」
耳元で、声がわらう。
彼女はきっと俺がそんな事をできないとわかっていて、でも心底それを望んでいるのも理解していて、嗚呼、だからそうやって俺に強請る。
たとえば。
此処で彼女が俺にそう強請らなければ。
俺が此処で彼女を殺すことができれば。
きっとそれが『正しく』てずっと離れずにいられたのかもしれない。
20171208
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