此処においていく

 あの人が、私を呼んでいる――。

 名を呼ぶことは契りなのだと、誰かが言った。名とは『そうで在れ』と願われた事の証なのだと。
 相手に呼ばれ、それに応えれば自分は『そうで在る』事を望んだのも同じ事であるし、また相手も私が『それ』で在る事を知るのだろう。

 私の『透子』という名には色んなものが含まれていた。
 文字通り透けるように美しい子であれ、という意味でもあるし、家族が呼べばそれは両親の大切な娘である、という意味でもあった。
 そしてそれはあの人の妹である、という意味でもあった。

 私が殺したあの人は、どんな思いで私の名を呼んでいたのだろう。
 呼び慣れすぎて舌に馴染んだそれは――呼べば呼ぶほど、それが自分の妹である事を嫌でも実感しただろうに。

『――透子』

 飽くこともなく、さりとて触れるでもなし。
 ただ兄がしたのは名を呼び続ける事だけだった。
 漢字にして、たったの二文字。
 その文字列が、あの声が、私を縛る。

 兄から逃げようとすればするほど、あの甘く透き通った声が、私を愛おしむ。

『透子』

 きっと誰に呼ばれても、誰に抱かれても私はあなたを思い出す。
 これは呪いだ。

『そうで在れ』

 あの人は望んだ。
 私が貴方の妹である事を。そして選ばせた。私が貴方に縛られて生きる事を。
永遠に貴方の『透子』である事を。


***



 ふとした思い付き。ちょっとした好奇心。
 私は凪に頼んで祠のある小さな島に舟をつけてもらった。凪に支えてもらいながらそこに降り立つ。
 巫女と龍の眠る場所。
 そして――凪の殺した女が眠る場所。
 手を合わせる事はしなかった。だってそんなのは面白くない。

「姐さん、何がしたいんだ。罰当たりだな」

 そんな事を思ってもいないような軽い口調だったので、私は思わず噴き出す。

「あんた、罰なんて信じちゃいないくせに。ああ、でもそうだね……ただ、此処に立ってみたかった」
「そうか」
「あんたのさっきの口ぶりからして、此処に沈めたのは一人じゃないんだろう?」
「……」

 凪は答えない。沈黙とは肯定の意である。
 凪は人が来ないことが何かと都合が良いと言っていた。つまりは、そういうことだ。
 下駄を脱ぎ、足袋も脱ぎ捨てる。素足になって、その地面を踏みしめる。苔むしていて、ひやりとした冷たさが素足に滲む。

 その場にゆっくりと身体を横たえて、地面に耳を当てる。
 そのまま、瞳を閉ざす。大きく、息を吸い込む。
 語るにはあまりにも昔の事で故に勇気が要った。おそらく私は悪いものと共に歩む時間が長すぎたのだろう。

「ねえ、凪。私は穢される事には実は慣れているんだ。兄を必要以上に神聖視するのはそのせいなんだろうね。身体も心も、自由にならない事の方が多かったんだよ、私はね」

 凪が息を呑む気配がした。
 目は閉ざしたままだったから、凪がどんな顔をしていたのか私にはわからない。こんな告白をされて楽しそうな顔をするわけないのは理解していたけれど。

「実家の仕事柄、たくさんの大人が出入りしていたよ。男も女もね。そして私は……そう、事実として美しい子どもだったんだろう」

 これはあくまで見目の話。
 内面がどんなにどす黒く、人として終わっていようともあの大人たちには関係なかったのだ。

「あとは言わなくてもわかるだろう?無知な子どもは簡単に玩具になるんだよ」

 あれは誰の体温だったかしら?
 あれは誰の声だった?
 みだれた髪を結いなおしたのは?
 はだけた着物を着付けてくれたのは?

 そんな事、覚えちゃいない。
 どうでもいい。

 ごろりと仰向けに寝転がる。うっすらと瞳を開けば、薄氷のようなあの空が美しかった。
 お腹をゆるりと撫ぜる。我ながら、天ぷらは美味しかった。お腹がいっぱいだから、今はこんな話をしても悲しくならなくて良い。

 凪はどかりと私の隣に腰を下ろして片手で瞳を覆った。そしてはあ、とため息を吐く。

「何故、そんなけろっと話せるんだ?」
「さあ?強いて言うならお腹がいっぱいだからか」
「ふざけないでくれ」
「いや、ふざけてないんだけどね。あとは慣れているから」
「慣れ?」
「私にとって、当たり前の日常だったからねえ」

 両親は知らないだろう。兄たちも、きっと知らなかった。
 そして慣れているだけあって、私は『それ』を武器に使うことも容易く学んだ。
 こちらにも利が出来てしまえば、一方的な被害者とは言えなくなるだろう。私は自分で被害者でいられる道を捨ててしまった。

「私は強かった。そしてとても卑怯だったんだよ。泣いていたのはほんの幼いうちだけだったのだから」
「でもそれは完全に悪戯をした大人が悪いだろう。姐さんがそんな風に感じる必要はないじゃないか」
「大人たちがさ、兄の葬式の時にこっそりと声をかけてきたんだ」
「……それで?」

 その時の事を思い出そうと記憶を手繰る。
 人気のない、暗い場所だった。
 確か相手は――相手の何人かは泣いていた。兄はとても好かれていたのだと思う。そして私を穢した彼等は――私の前に膝を付き、頭を垂れ、こう言った。

『赦されるとは思っちゃいねえ。でも、済まなかった。庄さんの死顔を見て思った。貴女まであんな風になったら――ご両親はもっと悲しむんだろう』
『お嬢さん――透子お嬢さん、俺らはなんて事を貴女にしたんだろう』
『申し訳ない』
『申し訳ない――どうか』

 どうか――

「『赦してくれ』ってさ」
「ふざけてるな」
「臆病な奴らだったから、兄が死んで身がすくんだんだろう。或いは私が後追いをして、ついでに遺書でも残して悪行がばれるのを恐れたか。ま、どっちでもいいんだけどね」
「姐さんは――赦せたのか?」

 はて。
 私は彼等になんて応えただろう。あの時は正直どうでも良いと思っていた。自分の今後の身の振り方ばかりを考えていたから。
 でもただ、

「確かわらったんだと、おもう」

 朧げにそんな記憶がある。
 
 可笑しくて?
 違う。
 悲しくて?
 それも違う。
 そう、確か――

「――うれしくって」
「それは――」
「謝ってもらったのが嬉しかったからじゃないよ。わらったのは――自分が被害者でいられることに気づいたから」
「姐さん……」

 赦せる機会があったのに、それをしなかったのは自分が被害者でいたかったからだ。彼らを赦してしまうことで『それ』が間違いであったのだと気付いてしまうのが怖かったからだ。

 だから、哂った。

「凪は不思議だと思ったよ。私を穢しはしても侵しはしない。大事にしてもらえるのは、変な気分だった。私と同じように人を殺めても、踏みにじっても、人を好きな――好きだと思える異常性がどうしても欲しくて」

 手当てをしてやった時に、とろりと流れたこの男の血のうつくしさ。
 人を殺す手で、私に菓子を与える無垢さ。
 可愛がっていた女を簡単に殺して、間違っていないなどと嘯く穢い狗のくせをして、ああなんて醜悪な嘘つきで、おぞましく、凶暴で――そのくせ、きれいだから私は欲しくって。
 一度でいいから、私も綺麗なものを手に入れてみたくて、でも綺麗なものも美しいものも似合わないのなんてわかってるから、ちゃんとすぐに手離すから――ああ、一度だけ。
 世間様は外れもの同士お似合いだなんていうかもしれないけれど、でもきっと違うんだ。

 わたしとこいつの、穢れの種類は。

「なぎ、」

 彼に向って両手を伸ばす。凪は私に覆いかぶさるように、私を抱いた。
 凪の肩越しに見える空が、だんだんと濃く濁る。そのうちに雨が降るだろう。

「じきに雨が降るよ。そしたらどこかで休もうか」

 その意味がわからぬほど、こいつも莫迦ではあるまい。

「ああ……わかった」

 事実、凪は耳元でそう囁いた。
 
 大丈夫、手離してあげるから。
 大丈夫、冒さないから。
 大丈夫、わたしは、あなたを捨てていく。

「凪――なぎ、なぎ、なぎ――」

 何度もその名を呼ぶ。
 これが契りとなるように。その名の通り、あなたが生きられるように。

 死ぬも勝手、死なぬも勝手。
 それでも私はひそやかに望む。

 此処がわたしとあなたの、あだしが原。


20180425

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