すべて溶かして消えてしまえ

 わたしはいったい何をしているんだろう。

 台所に立ちながらそんな事を考える。普段は自分の食事は適当に済ます事がほとんど。外に出れば一膳飯屋なんてたくさんある。それでも今日は朝から市へ向かった。
 寒くて寒くて、こんな時期に外へ連れ出して逢引きしようだなんて考えているあの莫迦な狗の事を、私も考えていた。以前に隣の若奥様が言っていたようにひどく冷えるので、温石を持って行った。そこで冬の野菜をいくつか揃えた。
 帰ったその足で、持ち帰った野菜を油で揚げる。ころりとよく肥えた蓮根がとても好き。所詮は天ぷら、というやつだ。

「最後に食べたのはいつだったっけね……」

 父が殊更好んでいたように思う。商談が上手く纏まると母は「お疲れさまです」とたおやかに微笑み、父の食膳に上品に盛り付けたそれを出したものだ。お調子者の長兄は油物は酒に合うとよく喜んでいたし、次兄も大人しく、――でもどこか顔をほころばせながらそれを食していた。
 どこにでも家庭の味というものはある。それがまあ、私にとっては天ぷらだったのかもしれない。
 母が精を出し拵えてくれたあの味を私はもう憶えていない。
 忘れる事は容易い事だ。辛い事は忘れられなくとも、良い事と楽しい事は繰り返しを失えば容易に日常から消える。辛い事は回想を何度も繰り返すから忘れられないだけだ。良い事と楽しい日常を――人は当たり前だと信じているから――それを何度も回想などしない。
 ともあれ。
 まあ、幅広く商売をしている生家の屋号をそこかしこで聞くのでみな息災であるのだろう。
 早起きが苦手な私を気にしてか、昼少し前に来るとあの狗は言っていた。あと少しで来るんだろう。私は仕上げた料理を小さめの重箱に押し込む。飾り気なんて皆無だ。
 本当に押し込めただけ。押し込めた、だけなのだ――

「――そう、なにもかも」

 私はあの狗の事を何も知らない。碌でなしの極道者だという程度にしか知らない。

「だから私の事も知らないままで、どこかへお行き――凪や」

 私はそう独り言ちる。
 本当にお遊びが過ぎた。遊びで関わったあの莫迦にあんなにも心を掻き乱されて、まあ真の莫迦は私である。

「さてと」

 台所を片付けて部屋を見まわす。少しずつ片付け始めたこの部屋にはもうほとんど物がない。
 忘れる事は容易い事だ。――だから忘れてしまえ。莫迦で優しい、外れ者の凪や。

「このままでは私がお前を穢すから」

 穢さないように、と囁いて落としたあの口づけは恋情でも愛情でもなかった。
 私の口を吸い、からだの線をなだらかに撫で上げ、抱き締めては好きだ好きだと繰り返しておきながら本当の意味で私を抱かない莫迦な男。
 定義付けなんてつまらない事は嫌いだ。だからあの感情に名を付けようとは思わない。
 もし名付けてしまえば、とたんに面白くなくなるだろう。
 これは愛でも恋でもない――だけれどあの男のからだに、舌に、臓腑に。私の毒を流し込んで冒したい。どす黒い毒で、あいつの肺腑を撫で上げてしまいたい。
 私は私を愛するあのおとこを――彼を愛していないこの手で殺めたい。
 そんな事を考えていると、

「姐さん、来たぞ」

 ばぁん、と勢いよく戸を引いて今日もあの男が来る。いつもと違うのは――

「さあ、行こう」

 にやりと笑って、私の手を引き、外へ向かう事。

(まあ、別にこれに毒なんて仕込んではいないけどね)

 丁寧に布で包んだ重箱を私はこっそり、するりと撫でて笑う。そう。これはただの気まぐれ。
 ――気まぐれなんだ。


***

 

 空は良く晴れた――とは言い難い、濁った天気だった。
 暗くもないけれど、すっきりと晴れてはいない。日差しはあるけれど、暖かくもない、私達の関係のように中途半端だった。
 ゆっくりと町を外れるように歩いていけば、人気のない道に出る。時折飛脚やら行商人やらとすれ違い、甘味屋などがまばらに並ぶ。道端にぽつんと据えられた道祖神がこの道を通る人を見守っている。
 
 ――この先に続く道に、何があると言うのだろう。
 少なくとも始まりではない。

「おっと」
「あら、ごめんなさいねえ」

 野菜を背負った老婆と凪がぶつかる。農家なのだろう――よく日に焼けた老婆は凪の風体を見ても怯えるような事は無く、穏やかに詫びる。よろけた拍子に背負った行李から幾つか野菜が転げ落ちる。

「こちらこそ、申し訳ない。っと……野菜が」

 凪は落ちた野菜の土を丁寧に払い、老婆の行李に入れてやる。

「おや。ありがとうねえ、お兄さん」
「いえいえ。精がでますね、お母さん」
「あたしら百姓は休んでられんでねえ。毎日忙しいよ」
「そうですか。ここいらは道が少し悪いから、お気をつけて」
「ありがとう」

 そんなやりとりをしてから、老婆は手を振り去っていく。
 私はそんな様子を黙ってみていた。

「さてと。姐さんは昼に何か食べるか?」
「ううん。たいていは一日に二食。気が向いたら甘味屋で何か腹に入れるけどね」
「そうか。どうも俺は二食だと夜まで持たん。昼は特に腹が減る」

 男と女では力の使い方にも違いがあるのだろう。思えば、兄達もよく食べる方だった。育ち盛りの時など母と女中たちがあくせくと忙しそうに食事の支度をしていたっけ。

(ああ、やだやだ)

 どうにもこの男といると、実家にいた時の事ばかり思い出していけない。

「じゃあ、ちょうど良い。これをあげる」
「ん?なんだ?」

 突然押し付けられた重箱に凪は目を白黒させて困惑している。

「鈍いね。食べ物だよ」
「お、有り難い」

 中身が判れば嬉しそうに微笑む。凪のその顔は――いつもの溌剌とした煩さと明るさが少し冷えている。
 何と言うのだろう。今は『此処にいる』とでも言うべきか。普段の凪は明るく残酷で、そしてとても流されやすい。この男の支柱は何なのだろうといつも思ってはいたが、何てことはない――他人なのだ。

 うつろい、ふわりふわりと流れ、その場で好いように生きている。きっとそこは私と変わらないんだろう。でも、私と凪には大きな違いがある。

 凪にはきっと、流されてはいけないという思いがある。

 兄の本のあの言葉を莫迦なりに覚えているのはそういう事だろうし、先程の老婆とのやりとりを見て感じたのはなによりこいつには心の根本で人を好きだと思う気持ちがあるということだ。

 他人の『人格』を愛しているのとは違う。猫好きがとにかくそれを好むように、凪は生き物としての人間が好きなのだろう。
 そう、私と違って。
 さて。そんなこの男のうつろいと明るさを奪っているのは何なのか――それを問うまでもなく。

「今日は少し元気がないみたいだけど」
「あ、俺か?」
「他に誰が?」
「そうだなあ、姐さんがこれで最後にしようなんて言うから、どうしたものかと考えていた」

 受け取った重箱を左手に持ち、するりと冷えた右手が私の手を掴む。ぴたりと歩みを止めてしまった凪を見上げて、私は問う。

「それ、今は食べないのかい?」
「もう少しすれば、目的地だ。そこで頂こう」

 ぎゅうと砕かんばかりに私を掴む手に力が入る。あのまっくろな目には伺えない色がある。

「そう」
「この道の先に、何があると思う」
「さあ、わからない」
「そうか」

 そう応えては眉間に皺が寄る。

「そんな顔はおやめよ」

 掴まれていないほうの手で、彼の冷えた頬を撫ぜる。

「――似合わないよ、凪」

 何故なんだろう。今はそんな顔を見たくない。だから私は背伸びをする、頬を包む。
 そして浅はかに、口づける。

「――」
「っ」
「ねえ、なぎ――」

 私に乞われるがままに、凪は私の腰を抱く。
 冷えた頬。加減を忘れた手。似合わないくらいに落ち着いた静謐な瞳。
 そんな今の凪を彩る似合わない何もかもが、恐ろしいくらい似合っていて、私はまたこいつの一面を知る。

 凪は、後ろ暗い何もかもを私に見せようとしている。血の匂い。力の形。心の底にある――なにか。

 ああ、凪は今此処にいる。
 流されるように生きている男が私を支柱として今、此処にいる。
 私の為に。自分の為に。大事な何かを殺しながら。

(――莫迦な、子)

 こんな安い口づけで騙されてくれている。物事の本質を見抜いているくせに、あえてそこから目を逸らしては、自分にとって好ましいものしか見ない。

(だから――)

「ね――、」

 私は囁く。

「今日はそんな似合わない顔をするたびに、こうしてやろうか」

 唇を離し、囁けば凪がむっとした顔をする。でも、その頬はほのかに赤い。

「あんた、さんざん私に色々しておいて今更赤くなるのかい」
「姐さん、ふざけるのは止めてくれ。俺はこれでも一応、真剣に悩んでいるんだ」
「悩む?相手がいる事を悩んだって意味ないよ」
「どうして?」
「だって、私はもう決めているもの。あんたから離れる事も、なにもかも」
「でも俺は決めていない」
「――そう」

 そっけなく呟けば、強く抱きしめられた。そうっと息を吸いこめば、焚き染められた白檀がほのかに香る。胸元の生地をそっと撫でれば、さらりと心地の良い感触。こいつの着ている着物が新品なのだとすぐにわかる。

(ばかだ――)

 私は買ったばかりの紅が付いた凪の唇を、親指でぐいと拭ってやった。

「この道の先には、水場がある」
「水場?」
「ああ、綺麗で大きな池だ。周囲には村も家もなにもないが、祠だけがある。こんな伝説を知っているか?」

 そう言って凪はその池に纏わる話を教えてくれる。

「むかし――ある村が龍の怒りを買い、止まない雨によって滅ぼされた。村人を殺しつくしても龍の怒りは鎮まらず、とうとうと降った雨は巨大な池になった。それでも雨は止まない。そこで一人の巫女が龍の元へと向かった」

 凪の低く、心地よい声が物語を紡ぐ。

『――貴方はどうして雨を降らせているのですか』
『人が憎いからだ』
 龍は言った。
『そして憎いと思う事がひどく悲しいからだ。私は痛む――故に、私は渇く。だから私はこうして泣いているのだ』
『悲しくなければ雨は――貴方の涙は止まるのですか』
 巫女が問うた。龍は頷く。
『為らば――いっしょに眠りましょう。あの大きな池で。あの池が溢れてあふれて、人がどうしても住めなくなっても。それでも私はあの池に沈み、其処で貴方と共に居ましょう。いつか貴方の悲しみと渇きが――癒えるその日まで』

「巫女はそう言って龍と共に池で眠り、龍は巫女によって悲しみと憎しみが癒される時を未だ――あの池で待っている」
「癒されてないんだ?雨は止んだのに」
「長い時をかけて培われた怒りや悲しみは、一瞬では消えないさ」

 凪は肩を竦める。
 
「まあね」
「龍の怒りはまだ完全に鎮まっていない。巫女によって蓋をされているだけだ。だから――あの周辺は土砂やら豪雨やら何やら良くない事が起こる、とされているらしい。今でも人は近づかない。だから俺にとっては――都合が良くてな」
「そう」

 聞きようによっては、二重の意味で非常に恐ろしい話である。こんなにも陰惨な逢引きがあるだろうか。でも私はそれで良いと思えた。だってこれは――とてもこいつらしい。
 腰を抱く彼の手に力がこもる。私は凪の腕をぺしぺしと叩いた。

「それは結構。それよりほら、そろそろ離しな。天下の往来だよ」
「もとはと言えば姐さんから……」
「はいはい、歩く歩く」

 ぶつぶつ言いながら凪は身体を離す。とたんに冷える体温に、いかにも躰は正直だな等と思う。少しだけ離れて凪の背を眺めながら歩く。太く逞しいうなじ。大きく筋の張った背中。重箱を所在なさげに指先でひっかけて、それでもこいつの足取りはしっかりとしている。
 口の端から零れ落ちる、寒さでゆうるりと白く濁る吐息が美しい。
 だって――息をするとは、当たり前に生きていると言うことだから。

「この道の先には――」

 私は思わず呟いた。

「ん?」

 凪が振り返る。

「この先に在るのは――きっと墓だよ、凪」

 龍も巫女も目覚めを望んではいないのだろう。共に眠りながら他人に不幸を撒き散らして、それでも身を起こそうとはしない。そもそも、巫女の行動が住民の為か龍の為であったかどうかは語られてはいないようだ。
 でも住民の為でないのなら、なんとなく納得がいくのだ。

「墓か」
「そう」
「龍と巫女のか」
「そうだね。そして私とあんたの――あだしが原」
「ははっ曽根崎心中を思い出すなァ。『此の世のなごり、夜もなごり。死に行く身をたとふれば――あだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ』ってな」

(この世が終わる。そして夜も終わるのだろう。死に行くこの身を例えるならばそれは墓地にふるりと落ちる霜のようなもの)

「こうして足を踏み出す度に――消えて行く。夢のなかで見る夢はどうしてこう哀れなのか」

 続きを思わず落とすように呟いて、私は凪に言う。

「良く覚えているね」
「有名だろう」
「うん」
「でも、俺は姐さんと死のうとは思ってないよ」

 ははっと笑う凪に私も微笑む。

(違うよ、凪――終わるのは、私とあんたのこの、関係)

 口に出しはしない。面倒だから。
 今日で終わりにしようと、私は決めてしまったから。
 この想いと、あなたがくれた何もかもと。
 痛くて苦しい、前にも後ろにも進めない、どうしようもない関係の、終わり。
 これで最期にしよう。私はこの先にあるあだしが原で、この関係を静かに看取る。そして埋めて土をかけて、そして遠くへ往こう。
 あなたのいないどこか、遠くへ。
 
「なあ、約束してくれ。今日だけは、どうか明日の事を考えないと」

 そう言われて私は思わずぴたりと動きを止めてしまう。こいつは――どうしていつも。

「あんた、私の頭の中でも見てるのかい」
「見えてない……が、そうだな。姐さんと過ごすようになって少しずつ分かってきた」
「それは結構」

 私は素っ気なく呟いた。


***



 着いた先は、凪の言う通りの場所だった。
 大きな池を囲うように生えているのは桜の木だろう。春になれば、きっと見事な桜並木になるに違いない。冬の今は、寂しいものだが。
 珍しい事に、池の中心に小さな島があり鳥居と祠がある。時折水鳥が魚を追い立てる音がするのみで、ほんとうに静かな場所だった。
 岸には古ぼけた木舟がぽつんとある。

「さ、姐さん。こっちだ」
「へ?」

 まさにその舟に向かいながら凪が手招く。

「まさかそれに乗る気?」
「そうだ」
「船頭も居ないのに、誰が漕ぐんだい。私は嫌だよ……」

 思いっきり顔にも出ていたらしい、凪は噴き出して笑う。

「ははっそれくらい俺が漕ぐさ。――おいで」
「わ、」

 ぐいと強い力で引っ張られてたたらを踏む私を、凪が抱きとめる。

「おいで。――俺が漕ぐから」

 胸に耳を当てると、その声は凝って響く。その胸の広さと暖かさを、今は私だけが知ってる。
 今日は主導権も何もかもをこいつに取られていて、私は戸惑う事しかできない。いつもの自分本位な『わたし』が取り戻せないのだ。
 ほわほわと香る白檀と、こいつの肌からする男の匂いに充てられているのかもしれない。

「はぁ……わかったよ」
 
 私が不承不承頷くと彼は腕まくりをしてから櫂を手に取り、器用に舟を漕ぐ。力を込めて櫂を動かすたびにその逞しい腕に血管と筋がうっすらと浮かぶ。

「姐さんは水場は好きか?」

 祠の近くまで来て、凪が静かに問う。いつもの明るさを少し控えた落ち着いた声音だった。

「まあ、好きだよ。水音は心地よいし……よく兄が笹船を作っては近くの川に流していたっけ」

 まるで何かを見送るように。
 そう付け加えると、凪の眉がぴくりと動いた。

「こうして俺と過ごすのが最後だとしても――やっぱりあんたは兄上の話をするのか」
「……ん?ああ、」

 少しだけ身を乗り出して指先で水に触れる。あまりにも冷たくて、こんな場所で眠る龍と巫女が少しだけ可哀想だと思った。
 指先で水を弄んだまま、私は言葉を続ける。

「私がこうして今生きているのは、兄のせいだから。どうしてもね、兄の事ばかりになってしまう」

 兄の話をすれば指先に絡む水のように、心は冷えていくのに。

「兄の『せい』なのか?『おかげ』じゃないのか」

 そう言って凪は水を弄ぶ指に自身の指を絡めた。冷えた水がこいつの体温で僅かにぬるまって気持ちが悪い。
 これだから、いけないのだ。私にとって人と居るという事は、体温を分け合うという事は、自分の中に異物を受け入れるという事に相違ない。その感覚はあまりにおぞましく、私は私でいられなくなる。その事がひどい恐慌を齎す。
 自分から口づけて、抱き締めて、此の人を受け入れて――それでも、根底にあるのはいつも同じ。
 怖い、嫌だ。気持ち悪い。入ってこないで――そんな気持ち。
 まるで生娘のように、私は此の男を恐怖する。

「違うよ。だってきっと――兄は私を縛り付けておくために、ああして死んだんだ」

 だから私を『おかさない』まま死んだ兄を、こんなにも慕ってしまう。
 私の言葉に凪が背後で息を呑む気配がした。

「――それ、は」
「気づいていたのかって?そりゃ、気づくよ。兄は私の為に死んだ」
「憶測でなく?」
「憶測でなく――私の中の事実として。そしてその思惑通り、私は醜いこの有限の生のなかで、兄だけを憎んでは胸をいっぱいにして生きている。でも出来るのならば、私は兄の後を追いたかった。――ほんとうはね」

 これは誰にも言った事がなかった。

「だって、これはきっと愛でも恋でもなくて、でも私は兄の綺麗さに酷く惹かれてしまった。触れない美しさ――犯さないやさしさ、そんなどうしようもない、狂暴さに」
「狂暴?何もしてこないのにか」
「そりゃあ、ね。自分のどうしようもない感情を自分の内側だけで飼える人だったんだ。自分の中身を制御する事ほど、難しい事はない。見た目美しいものほど、中身はおぞましい。その釣り合わない姿は――ね、どこか好いでしょう」
「じゃあ――」

 胸倉をつかまれて後ろに突き飛ばされれば、私はあっさりと舟板を背に倒れる。濁った空が一瞬見えて氷のように美しいと思えば、それは一瞬で凪に遮られる。

「こんなふうに、力で抑え込まれるよりも、姐さんの兄貴は狂暴だったか?そしてそれはそんなに美しかったか?俺はそうは思わない。一番醜悪な仕方で、あんたを縛ったんだ。縛って、姐さんの綺麗な所を余すことなく、冒したんだ。たかが兄貴の分際で。たかが死人の分際で――!俺はそんなの赦せない」

 凪の瞳にゆらりときつい火が灯る。
 ぎちぎちと片手首を抑え込む凪の手をぼうっと横目で見ながらも、私は応えはしない。
 凪が力を込めれば込めるほど、舟がぎしりと揺れた。

「いたい」
「痛むようにしてるんだ。当たり前だろう」

 どこか怒っているようでいて、悲しんでいるようでもある。凪は続ける。

「だって好いているならば触れたいだろう?こんなにも犯したくて穢したくて、殺したくて――そんなどうしようもないくらいに、内側で暴れまわるこの感情を俺はいったい、どうしたら良い」
「……」
「良くないものを、良いもののように語るのはやめてくれ。黒は黒。白にはなりはしない。あんたは黒が好いのだと言うんだろう。でも違う。その黒は良くない黒だ」
「そうだね。あんたの言う通りだ。私は兄をじっさい、美化している」

 砕かんばかりに抑え込む凪の手をやんわりとほどいて、私は彼の頬を撫ぜる。

「ねえ。その事に関しては後できちんとあんたに応えようと思う。だから今は、凪の事を教えておくれ」
「俺の事――?」

 凪は驚いたように目を瞬かせる。そういえば、こういった質問はほとんどしたことがなかったかもしれない。

「そう。例えば普段は何をしていて、どうしてあの兄の本を大切にしていたのか」
「……そうだな、それは」

 ぐいと手を引っ張られて身を起こす。凪はそのまま胡坐をかいてそこに私を座らせ、後ろからぎゅうと抱き締める。

「話して無かったか」

 するすると大きな手のひらが首筋を撫ぜる。色を想わせるその仕草にぞくりとしながら、私は気づかれないようにそっと息を吐く。

「無いね。あんた私の事ばかり訊いてきて、自分の事は喋らないんだもの」

 そして私も訊かないし。凪の蛇のようにずるりと首に這う手にまた、力がこもる。

「普段は――そうだな。こうして人の息の根を止めるような事ばかりしている。賭博場や女が春を鬻ぐ宿の経営――その他後ろめたい事ばかりやって生きているよ」
「その生活は好き?」
「ああ」

 ざらりとした声が、一拍も置かずに応えた。

「そうだな、好いているんだろう。――逃げる事も抗う事もせず、此処で生きるのが当たり前だと思っていた。ああ、俺には弟がいるんだが」
「へえ、初耳。あんたも一応兄貴なのかい」
「ああ。あいつは俺と違って一般人に綺麗に融け込む事ができる。完璧に『におい』を消す事ができるんだろう。物腰も比較的穏やかだし」
「可愛がってるんだね」

 顔は見えないけれど、声が優しい。きっといつものあの、締まりのない顔をしてるに違いない。

「ただお人好しでなあ。昔から騙されやすい。俺の弟と言うだけで目の敵にしてくる奴は沢山いるのに、自分に近寄って来る奴を疑う事ができない。まあ、ある意味莫迦なんだな」
「そう」
「守ってやらねばと思っていた。あいつはそんな必要はないと今でも言うが、あれは繊細で優しい。おおよそ、極道には不向きな男だ。大人しく本を読んでいる事を何よりも好いている」

 凪の手は私の腹部の前で組まれ、その額が私の背に預けられる。

「俺が居る限りは、弟が家業に関わるのは最低限で済む約束なんだ――親父とのな。あれは以前堅気の女を好いたがとうとう別れてしまった。それからどうにも、流れるようにさらさらと生きていていけない」
「私とは気が合いそうだけどね、その弟。生き方って意味では」
「なあ、姐さん。俺は死ねないと思うんだ。あんなに可愛い弟を、いや、弟分たちも置いては逝けない。あんなに強く見えた親父ですら――置いては逝けない」
「何故?」
「さあ、なぜだろう。好きだからかな」
「単純だね」

 こいつらしいと思った。正に兄とは正反対な男。

「あんたの兄上の本は、何年も前に手に入れたんだ。懇意にしていた貸本屋の親父が店じまいするとかでな。俺が好みそうだと言ってくれたものの内の、一冊だった」
「……むしろ貸本屋にあったのがびっくり。あの本というか――兄の本は部数がほとんど無いはず」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「『死ぬも勝手。死なぬも勝手。勝手を尽くして私は死のう。私の名前の一文字を、貴方が憶えていればそれで良い』この一文が胸に刺さった。俺は死ねないと思っているが、いつかはくだらない事で死ぬんだろうな。そんな明日が当たり前に見える」

 私を抱きすくめる腕に力が籠る。

「先を望んではいけない――でも俺が先を望まなければ、弟は、いや違う俺の家族たちは幸せになれないんだろう。なんでも『続くこと』は大切なんだ。それがどんな無法を働くろくでなしの一族でも、親分でも、若頭でも。なにもかも続かなければ人は幸せになれない」
「悪い事でも?それが自身の不幸の種になる事だってあるのに?」
「長い時をかけて、俺の家はああいう形をとった。そしてそれが少なくとも俺には幸せなんだよ、姐さん」

 人を脅し、殴り、時には殺め――金と快楽を売りにしては人の血涙の上に成り立つその生き様が。

「そう」
「前に『他人を幸せにしようなんて思い上がるな』って姐さんは言ったな。そう言ってもらえて、俺は本当は嬉しかったんだ」
「……なんで?」
「俺なりに考えたんだ。他人の幸せばかりを考えていたら、きっと自分ことを考える時間が減っていく。何が好きで、何が嫌いか。そんな事もわかんなくなるんだ」

 どこか縋るようにまた彼の手が私の首を這う。ざらりとした手のひらが私の気管を僅かに押さえつける。

「――ッ、あ」
「苦しいだろう――?人はあっけない。本当にあっけなく死ぬ。俺は死ぬのが怖い。何も残せずに逝く事が。でもそんな生活が当たり前すぎて、他の生き方なんぞ浮かびもしない。だからあの言葉が必要だった。ほかのどんな事も、忘れられて構わない。俺の名前だけ――名前の一文字だけでも憶えていてくれれば。だから、なあ、姐さん。俺の名前をどうか――忘れないでくれよ」
「――わかったよ。だから手を離して」

 そう言えば凪は大人しく手を離した。

「おっと、そういえば姐さんがくれた奴、まだ食べてないじゃないか」
「ああ、そうだったね」

 先程のしんとした声音を忘れたかのように、凪は明るく言った。私を抱きすくめたまま器用に重箱の包みを解いて開けば、時間が経ったせいで少しばかりへにゃりとした天ぷらが顔を覗かせる。

「おお、天ぷらじゃないか!朝から揚げてくれたのか?」
「まあね」
「嬉しいなあ……。母がよく作ってくれた。母の手料理と言えばこれだったんだ」
「そう。私も……そうだった。母がよく揚げていてね」

 何もかもが違う二人なのにこんなところだけ同じだなんて滑稽で、私は笑った。
 凪は手づかみで蓮根を口に運んだ。背後でしゃりしゃりと咀嚼音が響く。

「ちゃんとお箸もあるのに……で、美味しい?」
「ああ、美味い!」
「そう……良かった」

 余りにも嬉しそうだから顔を見たくて振りかえる。そんな私を意に介さず、彼はいくつかの天ぷらを口に運んだ。
幸せそうに頬張るその姿を見ているとなんだか心の臓をぎゅうと五指で握りこまれたような、そんな不思議な心地になった。
 まじまじと見すぎたのだろう、凪が笑って手に取った小海老の天ぷらを私の口に突っ込んできた。しかも私が咀嚼するまで離さない気でいるようで、指まで入っている。

「んんっ!?」

 突然の事で驚いていると、凪は笑いながら続ける。

「いや、あんまりにもじっくり見ているから毒でも入ってるのかと思ってな」
「……」

 私がじっとりとした瞳で睨むと、凪がそっと耳元に唇を寄せ、低くひっそりとした声で言う。

「――そうだったら、幸せだ」

 口が自由ならば溜息を吐きたい気分だった。突っ込まれた天ぷらを早々に咀嚼し嚥下すると、口元に添えられたままの指をかしり、と噛んだ。一瞬びくついた凪は固まっているのかしかしそのまま、指を動かさない。私は油と唾液でねとついた舌でそのまま彼の指を丁寧に嬲る。口の中から引き抜いて、今度は手のひらへ口づける。

 武器を持ちなれた手。
 人を殺す手。
 私を抱く手。
 たくさんの血を吸ったであろう手。

 私と同じ。
 私と同じように人を殺した手――なのに私はこの手がいとおしい。

 ああ、やっぱり所詮自己愛なのか。それでも良い。とうとう私は認めざるを得なくなる。私は私のような此の男が好ましくて、そして私自身のように憎悪したくなる。
 言葉を幾つ重ねても、形になりそうもないこの感情が何か、私は知っている。
 形にしよう。そして名付けてしまおう。そうすればつまらなくなって、簡単に捨てられるだろうから。
 いつものように笑って言える自信なんて微塵もないけれど。

 私は凪の手を唇で愛撫しながら、そっと震える吐息を吹きかけて囁く。

「――すき」

 認めてしまえば、自分のなかにすとんと落ちるなにか。

「ねえ、さん」

 今度こそ驚いたように目を見開いた凪に、正面から痛いくらい抱き締められる。暖かい、怖い、おぞましいものを受け入れてしまおうと思えば、知らずと涙があふれた。

 莫迦なこ。
 死ぬのが一番怖いくせに。何より恐れているくせに、それを私が与えようとすればお前はしあわせだと笑う。

(ああやっぱり、毒でも入れとくんだった)

 怖いものも二人なら、きっと怖くなかった。
 兄に置いて逝かれてからひとり、兄を愛して生きてきた。兄を愛する自分を愛して生きてきた。

 それが償い。
 それが贖い。

 兄を看取ったように、私は『私』を看取ろう。きっと此の人と一緒にはなれない。でも今だけは凪を憶えていたい。
 そろそろと彼の背を抱き締めかえす。
 隙間なく身体を合わせて僅かに開いた唇の隙間さえ埋めようと、彼の顔が近づく。

「なぎ、なぎ――ねえ、」

 あいしてる。
 その言葉の続きは、凪の唇に塞がれたままだ。


20171024

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