こんな幸せな死はもう二度と無い
薄ぼんやりとした行燈の灯りでは、姐さんの輪郭すら曖昧に溶けて見えた。もちろん、俺の気のせいなのだけれど。
少し強めに揺さぶれば、組み敷いた彼女は小さく呻く。心許なげに布団の上で彼女の手が何かを掴もうとする。
俺の顎を滴った汗が姐さんの頬を汚したのでそっと舐めとると、彼女はうっすらと瞳を細めた。
浅く息を吐き、少しだけ顔を逸らした彼女の頬をつうと涙が伝う。
嗚呼、また汚れる。こんなに綺麗なひとなのに。
「とおる――とおる、とおる」
以前そう呼べと言われた名を、繰り返し呼ぶ。
陶器めいた白い肌に手を這わせて、なんどもなんども呼ぶ。
「うん、な、ぎ――なぎ――ッ」
すると苦しそうな声音が応える。なんどもなんども。
此処にいる。今、確かに此処にいるよと。
こんなに綺麗なひとなのだから、きっと本来の名も美しいのだろうと思う。
俺には決して教えてくれないのは、何らかの意味があるんだろうか。莫迦な俺にはわからないけれど。
本当の名前も知らなくて、この先に実りなんてなくて、この人はいつかいなくなって。
なんて意味のない行為だろうかと、思う。
そう思いながら止められないのだから俺はどうしようもない。だって彼女もそう望んだし、俺もそうしたいと願ったのだからこうなるのは必然で。
でも何度彼女を揺さぶっても、何度その肌に手を這わせても、どれだけ彼女の涙を拭おうと、この人は逃げ水のように曖昧できっとすぐにいなくなるんだろう。
――俺は間違っていないか
此処に来るまでの道中の出来事を思い返しながら、やっぱり俺は彼女に触れていた。
***
冷えた雨が降る。
灰色の格子が俺たちの逃げ場を塞ぐように覆う。濡れた姐さんの手を握ればいつもとはまた違う、しっとりとした心地にらしくもなくどきりとした。
どこかで休もうか――と、姐さんは言った。言うまでもなくそれは褥への誘いだろう。俺のひどい勘違いでなければだが。
互いにふたり、しとどに濡れているせいか足を速めようという気にはならなかった。少しだけ歩幅を大きくしてそれでも俺と姐さんはゆっくりと歩く。
雨の日が降るとどうしてこうも静かなのだろう。
まるで世界からふたりで切り離されたように。
一歩二歩、そんな少し後ろを歩く姐さんに俺は問う。
「――俺は間違っていないか」
姐さんの誘いを履き違えていないかという意味でもあったし、それを断らない事への念押しでもあった。
「間違っていないよ」
対して、姐さんはけろっと答える。
いつも思うのだが、この人はなんでも軽く考えているし簡単に返事をしてしまう。それは恐らく彼女が『此処にいる』という意識が希薄だからなのではと感じるのだ。
芝居でも見ているかのように、俯瞰で物を考えているに違いない。
嬉しいとか、悲しいとか――恋しいとか。
そういった生臭い感情を削ぎ落してきたかのようだ。
先ほど言っていた男たちに穢されたという話もそうだ。
辛い過去を語るにしては明るすぎ、達観しているというには生々しい。
「なあ」
「ん?」
「俺の事を、どう思う」
好きだ、とは言われた。そう言う好意ではなくて、姐さんには俺がどういった人間に見えているのか興味があった。
彼女の手を強く握る。少し力を強めるだけで簡単に砕けそうな骨の細さが好ましい。
――怖くなはいか。こんな俺でも
――忌まわしくはないか。あの大人達と同じように
――だって、いまさら抱いたって、あんたはきっと逃げていく
わかっているんだ。ずっと見ていたから。
今日迎えに行った時、姐さんの部屋はやけに物が少なかった。食べ物を、用意してくれていた。近づきすぎて俺を穢すことがないようにと言っていた彼女が、今は俺に抱けばいいと静かに促す。
すべてが終わりを見据えての行動で、だからこそ問わざるを得ない。
俺を、どう思うのかと。
「――毒、みたい」
俺の問いに姐さんはぽつりと答えた。
「どろどろと、ねとねとと。粘っこくて飲み込むにはちと痛い」
「そうか」
「一度口に含むと、臓腑を撫で上げられているみたいで――ただ苦しい」
「俺といるのは苦痛か?」
「うん、苦痛だね」
やはり彼女は痛みなど感じていないかのように、さらりと言う。
苦痛だと言われて胸が痛む。どうしたって、この人は手に入らないのだから。
だから
「だけど――私には必要だった」
その一言が、俺にも救いだった。
「苦痛だった。同じように人を殺めても人を好きでいられるなんて。家族からも友人からも逃げずにいられるなんて。そんな人がいるなんて思わなかったから」
振り返れば、彼女はいつになく優しく微笑む。
「私にもありえる未来が、あなただった。捨てなくても、逃げなくても、ずっと大事にし続ける事ができたはずなのにね。私にはできなかった。私は、負けた。私の恐怖に」
「でも俺が身内を幸せにしているとは限らないぞ。じっさい、弟は好いた相手と別れた」
「言っただろう?『他人を幸せにしようなんて思い上がるな』って。私は凪の生き方が羨ましいだけで、それで誰かを幸せにしたいわけじゃない」
勝手でしょう?と瞳を伏せる。それでも口の端をあげて、彼女らしく言う。
「だから、凪も私を幸せにしようなんて考えなくて良い。私が望んだものを好きなように与えてくれれば、私も好きなように受け取る。それで良い。それで、好いよ」
俺の頬を、彼女の手が包む。じいっと俺の目を覗き込んで姐さんは微笑む。
「間違ってないよ、なにひとつ」
「なにひとつ?」
「うん。ずっと、これからも――」
***
――間違ってないよ
その返答に縋るように、ただ彼女を抱く。
この行為に意味なんてない。『これ』はなにも生み出さず、持て余した何もかもを解消し溶かし、とろりとどこか遠くへ流してしまうような――そんな無駄なものである。
ただ欲しいと言われたから与えて、与えられた側がそれを咀嚼して飲み込むも吐き捨てるも自由なのだから。
彼女には残れない。俺は彼女の『存在』になれない。
俺を毒だと透は言う。
ならば今、俺は彼女のなにかを殺めるためにこうしているのだ。
きっとこれは『透』が『凪』を捨てる為の作業。
その為に彼女を抱き、その為に彼女を冒す。
『幸せにしようなんて思い上がるな』
そう彼女は言う。
だから、俺はその願いを叶えようと思う。行きつく先が、互いの不幸でも。
「透、苦しくないか。大丈夫か」
俺は声が掠れても、苦しくても、それでいい。
「へいき、へいきだから」
そう答える透がどれだけ涙を流していても、この人が望むのならば『自分殺し』にだって加担する。
(なあ、姐さん。やっぱり間違いだったんだよ)
だって互いにこんなに苦しくなるんなら、するべきじゃなかったんだ。俺はあんたを抱くべきじゃなかったし、あんたは誘うべきじゃなかった。
でも好きだったし、愛していた。
(やっぱり俺は、あんたに怒られても幸せにしたかったなあ)
笑っていて欲しかったし、ずっと一緒にいたかった。
この行為を意味のあるものにしたかった。
好きだった。愛していた。まだ過去のものではないのに、過去のように語らねばならない俺たちはなんて不毛なんだろう。
(好きだから、あんたの望むようにする)
それだけは、ひそやかに赦して欲しい。
ただ、それだけは。
20180527
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