断ち切れた糸を愛でても

 闇を溶かすにはあまりにも心許ない、行燈の灯り。それでも私には凪の顔や身体がはっきりと見えた。
 此処は凪の『馴染み』の出会茶屋だそうだ。ともかく、金のかかる印象であったが、まあ実際そうらしい。凪は高い金をぽんと払い、店からはそこそこ良い料理も出された。それは隣室に放置されているけれど。

「とおる――」

 何度もそう呼ぶこいつを、莫迦だなあと思っていた。私が本名を教えなくとも、訊いてみれば良い。でもそうしてこないのは、凪なりの配慮なのだろう。
 内側に籠る熱はやはり好きなものではなかったけれど、私はそっと浅く息をはく。
 少しでもなかに――私の内側に残せるように。この渦巻く熱を憶えておくために。

 頬を流れていく涙をこいつは律儀に舐めとり、そして拭う。いいんだよ、平気なんだ。苦しいんじゃない。悲しいんじゃない。ただ――

「――さびしい」

 泣きたくなんかない。
 残しておきたいだけなのに、なくしたくないのに、兄さんみたいに内側にとっておいて綺麗に大事にしておきたいだけ――。
 なのに、涙があふれる。

「なぎ――」

 こいつが与えてくれる熱を、私はとうとう零してしまった。泣く声、呼ぶ声、涙――私が抱き締めようとする凪がこぼれていく。
 内側に留めておけない。こぼれていく、あふれいく。それがつらくてとても痛い。

「此処にいる――此処にいるよ、姐さん。大丈夫だから」

 汗に張り付く私の前髪を掬い上げて、額にそっと口づけを落としてくれる。
 私は手を伸ばす。
 首筋にある、細い傷痕。私と出会ったときには抉れていたあの腹の傷。背から腕に掘られた墨。
 ぎゅうと抱き締めれば、背にもいくつか傷痕があるのがわかった。
 その痕を指先でつうとなぞる。凪の背がびくりと震え、彼は熱い息を耳元でそっと吐き出した。

「痛かった?」
「傷の事か?」
「うん」
「ああ、痛かったな」
「そっか。それでもあんたはこのまま生活していくんだろうね」
「うん。今でもやっぱり死ぬのは怖いから、自重するさ」

 ははっと凪が笑う。
 うそつきだなと思う。きっと下らない事であっさり死ぬのだろう、こいつも。

「凪」
「ん?」
「なぎ、なぎ――凪」
「そうして名を呼ばれるとな」

 ぺったりとくっついていた身体を少しだけ起こして、彼は私の輪郭を確かめるように頬を撫でる。

「そうして生きられる気がして、怖いんだ」
「生きればいいんじゃない?お母上もそう望んでそう名付けたんだろうから」
「そうだなあ。そう出来たらよかった」
「できないんだ?」
「……」

 曖昧に笑って答えない小賢しさが鬱陶しい。
 生きていて欲しいと願う事はきっと傲慢で、こいつにとっては大きなお世話だ。
 わかっている。でも今は、そんなこいつの『幸せ』がひどくつらい。

「今なら、なんで姐さんが俺から離れようとするのかわかる気がする」

 悲しげに細められた瞳が嫌で、私は彼の頬を撫でた。

「だって、俺は『此処』を捨てられない。あんたが俺の幸せを願っても、俺はそれを叶えられない。皆が言う不幸に俺は身を置いて『幸せだ』って笑う莫迦なんだ」
「……そうだね」
「そして、それはあんたも一緒だろう?ねえさん」
 
 ああそうだ。噛み合わないんだ、私達の幸せは。そして互いにそれを捨てられないんだ。
 だって、捨てるにはあまりにも重すぎる。

 私は兄さんを捨てられないし、凪はあの生活を捨てられない。

 私は筆を持ち、こいつは刃を握る。
 そうして互いに人を殺しながら生きて、自分のなかに残してきた人を想いながら、愛しながら――愉悦しながら、ただ流れるように。

「こんなに近くにいるのに」

 そう囁けば、そうだなあと凪もわらう。

「こんなに、近いのにな。あんたは――遠いよ。姐さん」

 凪の頬に添えた指先が濡れる。

「遠いねえ――『此処にいる』のに」

 私もわらう。
 昔々こんな事をうたった人がいた。

「願わくば暗きこの世の闇を出でて紅き蓮の身ともならばや」
「ん?」
「『この世に一人で残されてしまうのならば、一緒に死んでしまいたい』」

 兄は私を置いて逝った。
 私を縛るためのものをたくさん残して、たったひとり。
 そして兄はあの本で、凪を此処まで残していったのかもしれない――というのは都合の良い解釈だろうか。

「――いいな、それ。そうしようか。今すぐにでも」

 そう言ってまた凪が笑うから、その唇を塞ぐ前に私は囁いた。

「うそつき」

 でもそうして同じ場所に生まれ変わることができたらいいのにね。
 
(そうだといいのに)

 そう思うとまた、涙があふれた。


20180610

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