憂鬱の箱庭に互いにひとり

 何事もなかったように、彼女は俺の前を歩いていた。

 きちんと結い上げた髪も、白いうなじも、しっかりとした足取りも何もかもがいつも通り。
 夜空はまだ曇っていた。
 濁る空では、星も月も見えない。

「ねえ、知っていた?」

 彼女が振り返る。

「ん?」
「今日は満月なんだよ」

 ――見えないけれどね、と姐さんは呟く。

「そうなのか」
「そう。満月の時は、何かを終わらせるのに適しているらしいよ」

 いつもの調子で微笑んで、そっと俺の手を取る。

「今日まで、ありがとう」
「……姐さん」
「ごめんなさい。結局は――あなたを穢してしまった」

 淡く笑む彼女の瞳から、つうと涙が溢れた。

「私は兄さんを想って生きてきた。きっとこれからもそう。だから一人でいいと思ってた」

 でも、と。彼女は俺の襟をぎゅっと握り言葉を続ける。

「今は少しだけ、あの人を忘れたい」

 もうどうにも堪らなくて、俺は透をきつくきつく抱き締める。居なくなるこの人のよすがを、どうにかして残したくて。

「忘れなくていい。きっとそれが、姐さんを美しくさせているんだから」

 愛おしい人を殺し、その血を纏い、その陰が貴女を貴女にした。
 そんな貴女に、俺は恋をした。
 貴女の書く言葉が。発する声が、仕草が、痛みが、悲しみが。もう何もかもが。
 
 ――どうしようもなく、貴女だった。

 兄を殺したゆえに美しい、俺のいとおしい貴女だった。

「いいの……?忘れなくても」
「……いいさ、きっと」
「私はいつも思い出していたよ、私が殺したあの人を。でも、次に兄を想うときは――」

 姐さんは、透はそっと俺から身体を離し、淡く微笑む。

「きっと貴方も思い出す。私が愛した貴方の事を」

  彼女の兄は、彼女を生涯縛るのだろう。
 そして、兄の死を思い出す度に彼女は俺を想ってくれるのだろうか。
 確証などない。
 でもそれでいい。それが俺の愛した貴女なのだから。

「じゃあ、またね」

 次など無いのにそんな言葉を残して俺から離れていく。するりと最後に絡んだ指先が、いとおしかった。
 そうして彼女は、ゆっくりと歩き出す。俺のいない方へと。
 俺もまた、歩き出す。彼女のいない方へ。

『死ぬも勝手。死なぬも勝手。勝手を尽くして私は死のう。
 私の名前の一文字を、貴方が憶えていればそれで良い』

 彼女の兄が遺した言葉を思い出す。
 俺は忘れないだろう。彼女がたったひとつだけ教えてくれた『透』というその名を。
 
 振り返ったその先に、もう彼女の姿は無い。ただ指先に残るぬくもりがあれば、俺はもうそれで良かったのだ。

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