私の声帯は貴方の名前しか呼べない

 歌舞伎絵本が欲しいと二つ下の実弟が言うので、ふらふらと町を歩けば地本問屋が賑わっている。自分は別に欲しい本などないので、店に入らずに外から眺めているに留めた。俺も弟もここいらでは名の知れた『ならず者』なので町民たちはあからさまに顔を顰めるか、そそくさとその場を立ち去るかだ。
 そんな事は弟にとってどうでもいい事らしく、彼は目当ての本を手に入れてほくほくとしていた。

「兄さんは今日もあの女の人の所に行くの?」
「ああ」
「珍しいね、一人の女にご執心なんて」

 弟――静(せい)が口の端を上げてにやりと笑う。

「姐さんと居るのは楽しいんだ」
「ここだけの話、作家さんでしょ?話とか合うの?」
「……姐さんは時々難しい事を言うが、悪い人ではないんだ」
「なるほど。話は合わないけど居心地が良いわけねー」

 訊いておきながら興味なさそうに、買ったばかりの本をぺらぺらと捲りながら静は言う。

「お前は何の本を買ったんだ」
「んー?曽根崎心中の正本」
「ああ、あの有名な」
「心中ものって絶対真似する馬鹿がいるよね」

 そう言った弟が少し複雑そうな顔をしたのを、俺は見逃さなかった。彼はほんの数年前に好いた女性がいた。その女性は所謂――堅気で。弟とその女性が結ばれる事はなかった。

「結ばれなくても生きていれば一生想っていられるのにね。もったいないなあ。ああ、想い続けるのが辛いから死ぬのか」
「さあな」

 あの心中本の話をした時の姐さんの顔が浮かんだ。姐さんの言葉通り、彼女は自分の書いた本で死者を出した事を、たいして気にしていないようだった。
 でも、ちらつくのだ。
 あの姐さんの瞳に、何か別の色が。

「兄さん。これ、さっきついでに買った本。あげる」

 静は先程とうってかわって優し気な笑みを浮かべて言った。

「好きな人の事、なんにも知らないんだね。これはたぶん『姐さん』とやらの新刊だよ」


***



「姐さんの新しい本、面白いな」
「あんた、わざわざ本人の前で読まなくていいんだよ……」

 姐さんが半眼になって呟いた。今日は久々に昼間から湯屋で髪を洗ってきたとかで、初めて会った日のように濡れ髪のままである。

「いや、まだ読み終わってなくて」
「家で読みな。目の前で読まれるとさすがに居心地が悪いよ」
「家で読んでたら、姐さんに会う時間が減る」
「そりゃあ良い事だね、私にとっては」

 ふふっと声を出して姐さんは笑った。そう言うわりに、行けば必ず茶を淹れてくれるし、薄っぺらい座布団も出してくれるのだ。
 新刊を出し終えた後は、暫く休暇らしく仕事はないと言っていた。彼女を贔屓にしている版元のご主人とやらは、随分と姐さんを大事にしているようだった。

「で、どうかね。私の本は?」

 にやりとしながらそう問う姐さんの顔は、自信に満ち溢れている。この人は物語を書くことに絶対の自信を持っているのだろう。

「ああ、面白いな!」

 ずっとそう思っていたから、俺はそう言う。

 姐さんの新しい本は不思議な話だった。綺麗な魚に恋をした女が、海に向かう話。ふわふわとした乙女のような設定なのに、話の雰囲気はじめじめと暗い。思わず、すんと鼻を鳴らせば黴臭そうなほど、暗い。でもそれが癖になる。ふと気になった一文を声にだす。

「『私はあの魚に恋をしていた。でもあの魚を追おうとすれば、人は皆私を止めるのだ。お前が海に入って行っても死ぬだけだよと』」

 そりゃそうだろう、と俺も思う。人間は海では生きられないんだ。そもそも魚に恋をするなんて馬鹿な女だとも思う。魚って食べるものだろう。なら、余計結ばれないだろう。

「なあ、姐さん。この女はどうして魚を追うんだ?」
「さてねえ」
「好きだからか?」
「かもしれない」
「でも、それで自分が死んだら意味がないと思うんだが……」

 俺は本が好きだけど、周囲に本を好む奴は少なかった。弟分たちは、桃太郎なんかの赤本を読んだ程度の奴がせいぜいで、実弟は狂歌本や歌舞伎や浄瑠璃の正本ばかりで趣味が合わない。
 俺自身の単純さもあるのか、こういった味気ない感想しか思い浮かばない。もっと教養のある人間だったら、女の切ない恋の色や、姐さんの文体からなんちゃらと説明ができるんだろう。

「……ふふ」

 姐さんは笑う。呆れているんじゃなくて、面白がっているあの顔で。

「あんたがそう思うなら、それでいいじゃないか。本っていうのはそういうものだよ。私の話を読んでそう思ったなら、それは既にあんたの本で、あんたの物語さ」
「そんな……俺はちゃんと姐さんの本を理解したいのに」

 本人からも説明がないなら、余計にわからない。絶対俺が考えているような話じゃないと思うのに。姐さんの本を、ちゃんとわかりたいのに。

「どうしたら……姐さんの考えている事がわかる?」

 ――好きな人の事、なんにも知らないんだね。

 弟の言葉が胸に刺さる。そう言えば、姐さんの事を俺は驚くほど知らなかった。
 本名だってそうだ。作家名は教えてもらったけど、姐さんの本当の名前は知らない。
 
 俺は知りたい。姐さんを、もっと知りたい。渇きに飢えた獣のように、内側からそんな衝動が湧いてくる。

「私の事を理解するなんて、なかなか無理だと思うけどねえ……」
「無理じゃない!教えてくれれば、ちゃんと!」
「うん。凪や――あんた、身近で理解できない人間はいないのかい?友人とか家族とか恋人でもいいよ」

 さりげなく恋人が含まれてることに微妙に傷つきながら(だって脈なしって事だろう、それは)俺は考える。

「……いる。いや、――居た」
「居た、か」
「そういえば、死んだ母の事が、理解できなかったなあ」
「例えばどういう風に?」
「そうだなあ……」

 俺は十の時に亡くなった母を思い浮かべる。母は父の義兄弟の一人娘で、いつも穏やかに微笑んでいる大人しい人だった。

「俺に『凪』って名前を付けた事かな」
「ほう。名づけは母親かい」
「そうだ。極道者の子に『凪』なんておかしいだろ」

 弟の名もそうだ。『静』なんて、母はよっぽど俺達に大人しくしていて欲しかったと思える。

「凪、ね」

 姐さんは筆を取ると、すらすらと何かを書いてそれを俺に見せる。

「一応言っておくけど、私の憶測だよ」
「……?」
「上から凪、薙ぎ、和ぎ」

 姐さんの細い字で書かれた字を、俺は見つめる。

「一番上は知っての通り、風のない穏やかな海の様子だね。二番目は薙ぎ払う――物事を平らにするって感じかね。神事で祓いとか清めの意味がある。酷い風、大雨、天災を鎮めるって意味もあるよ。そして――和ぎ」

 細い指先が、まだ乾いていない墨の上を滑る。

「――とても、穏やかな心」

 姐さんの穏やかな声が告げる。

「あんたのお母上は、あんたが静かな生活なんて出来ない事を知っていてせめて心だけでもと、思ったんじゃないのかね」
「だだの『凪』って意味だけじゃなくて?」
「わかんないけどね。でもほら、字や言葉はたくさんたくさん――意味があるんだ」
「そうか……そうかもしれないな」
「そうだよ『そうかもしれない』で、世界は成り立っているんだよ、凪や。そうかもしれない、が自分の真実で自分の真実が私の世界。憶測を真実にする力が欲しくて、私はこうして字を書くんだ」
「姐さんの言ってる意味がよくわからん」
「あんたの頭は狗よりも単純だからねえ。だから面白いんだけど」

 姐さんが愛玩動物にするそれのように、俺の顎をついと撫でた。

「ほら、私を理解するのは難しいだろう?」

 にやりと口の端を上げて笑う彼女は艶っぽい。濡れた髪が白い首筋に張り付いて、いやに煽情的だった。

「そうだな……難しいな。俺も姐さんのように頭が良ければ、母を幸せにできたかもしれないのに」

 母の望みを理解することもできなかった。母が望むようにも生きられなかった。それでもなお――此処で、この生き方を好んでしている。

「馬鹿だね」
「痛っ」

 鼻筋を指でピンと弾かれた。鼻を抑えて目を白黒させていると、姐さんは少しだけ怒ったような顔をしている。

「あんた、人を幸せにしようなんて思い上がるんじゃないよ。幸せになることなんて、義務じゃないんだ。自分の幸せは、自分にしか責任持てないよ」
「そうか……」

 例えばさっきの本の女の幸せが、海に沈む事だとして。
 恋をした魚に会えなくても、自分が死んでも、それであの女が良いと言うのならば、きっとそれで良かったんだろう。
 周囲が止める権利なんて、ないんだろう。

(嗚呼……)

 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、分かったかもしれない。あの本と、姐さんのこと。ふと気になって問うてみる。

「姐さんは、今は幸せか?」

 突然の質問に意味を図りかねたのだろう。彼女は少しだけ目を瞬かせてから、ふわりと微笑む。

「幸せだよ。でもね――」

 その笑みが、翳る。

「後悔がないとかじゃないよ。私も人間だから、ね?」

 そう言う姐さんの顔が寂しそうで、胸が痛んだ。
 
 たくさんの人を殺してきたくせに。
 それなのに、たかが女の悲しそうな顔くらいでこの胸はあっさりと痛むのだ。

20170104

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