私を残響のようだとわらって、

「あら、今日は寒いわねえ」

 井戸端で隣の若奥様に会った。にこりと微笑んで挨拶をしてくれる。

「ええ、本当に」
「嫌よね、寒いと。あら、素敵な簪ね。貴女が付けているものはいつも品が良いから憧れますよ」
「いえ、そんなに良いものではないんですよ」
「貴女はきっと本当に良いものを知っているんだと、うちの主人も言っていましたよ」

 彼女の御主人は小間物屋の行商人で、舶来の笄や櫛をいくつか頂いた事がある。おっとりした奥様と同じように良い人だった。
 奥様は汲み終えた水の冷たさにぶるりと身を震わせて笑った。

「こう寒いと、主人はあちこち行くのは堪えるみたいでね。温石でも持たせてあげようかしら」

 ああ、本当にご主人の事を好いているのだなと、心から宝のように大切にしたいと思っているのだなと感じる言葉だった。彼女の水の冷たさで冷えた指先が、柔らかそうで優しそうで、その手でご主人を愛しんでいる事がわかる。だから私はまた、思い出す。

 私が殺した――あの人について。

「そうですね……特に朝は冷え込みますものね」

 私はにこりと微笑んで応える。私は職業をご近所にも教えていない。自宅で繕い物をして生計を立てていると曖昧に伝えてある。

 本来の職業を知られていない方が好都合な事が多いからだ。以前住んでいた場所ではうっかり正体がばれて、変な男に付きまとわれた事があるし、あの心中本で死者を出してからは厭われる事も増えた。
 別に厭われるのは構わない。でも面倒くさいのは嫌だ。

「貴女も、風邪をひかないように気をつけてね」
「ありがとうございます」

 奥様を見送って私は井戸を見下ろす。水鏡に映る自分の姿を見て、知る。

(今の私を知っているのは、あの狗くらいか)

 私本来の口調も性格も職業も、何もかもを周囲の人は知らない。お隣さんだって、あんなに良くして下さるのに私は私を表に出す事を辞めていた。

(面倒くさいのは嫌だもの)

 それでも、あの狗にすべてをあけすけに教えたのは、そう、ただの気まぐれだったのだ。


***



「今日は岸野屋の饅頭だ」
「……ありがとう」

 凪は、とても単純な男だと思う。
 まめなのか私の元へ来るときは必ず甘いものを持ってくる。そして好きだの惚れただの、睦言にも満たない稚拙な言葉を吐いて去っていく。
 好きだと思ったから、好きだと言うんだろう。ただそれだけの事で、こいつがそれ以上の関係を望んでいるかは定かではない。

「極道者ってのは暇なのかい?」

 三日とあけずに私に会いに来るので思わずそう問うてみると、凪は笑った。

「いや、暇ではないなあ。やれ、力比べだ縄張りだってもめ事も多い。俺達は――元々的屋なんて言われる流れもんだったんだ。それが此処に定住するようになって、いわゆる博打打ちなんかで儲けている。でもそれだけじゃない」

 凪の目がすうと細まる。あの黒曜石が美しく翳る。

「それだけじゃ、なくてな」

 その先は言わなくてもわかった。私だって馬鹿じゃない。この男に会ってからある程度は調べてもいた。半分は興味から――そして半分は自衛の為に。
 彼等はおそらくその他に、金貸しや宿屋の経営で生計を立てているはずだ。宿屋というのは表向きの話で、本来は女が春を鬻ぐような如何わしいものなのだろう。

「俺は――いずれ親父の跡を継ぐから、色々あってな。舎弟どもの面倒も見なきゃならん」
「ほうほう、若頭ってやつかね。それじゃあ随分と多忙なんじゃないのかい」

 茶を淹れながら問えば、凪は饅頭を頬張りながら「まあな」と応える。

「ん。ありがとう。姐さんの淹れてくれる茶は、美味いな」
「そりゃ、良かった。あんた口に餡子付いてるよ」
「お、」
 
 凪は口に付いた餡を親指で拭うとそれをぺろりと舐めて言う。

「そう言えば、姐さんが俺の事の事色々訊いてくれるって珍しいな」
「そうかい?」
「ああ!すごく嬉しい!」

 ぱあ、と花が咲くような(という表現をこの男に使いたくない気もするが)笑顔で言われて、胸がずくりと疼く。

「私には理解できないね。私は――私を知られるのが怖い」

 優しい隣人。優しい此の、男。
 私は優しい人が怖い。

「なんで怖いんだ?」

 不思議そうに首を傾げるこいつが単純で、そしてとても眩しく思う。

「自分の事を知ってもらえたら嬉しいじゃないか。俺は姐さんが色々訊いてくれて嬉しかったのになあ」
「あんたは単純だからねえ」
「俺は姐さんの事をもっと知りたい」

 ぐいと腰を引き寄せられる。あの、恐ろしい黒曜石が私を見つめる。

「時々、姐さんは何かを思い出してるだろう」
「……それは」
「すごく悲しそうな顔をしてる。なんでそんな顔をするのか、俺は知りたいんだ」
「……」
「何を思い出してるんだ?」

 捕らえられる。人を殴り、殺す手が私を今掴んでいる。明るい陰の中に見え隠れするこいつの本性が、意図せずとも私を追いつめる。

「――兄の、ことだよ」

 掠れた声が漏れた。
 私はいつも思い出す。私が殺した――兄について。

「姐さんには兄上がいるのか?」
「『居た』んだよ。優しい人でね。そしてとてもとても――真面目な人だった」
「いつも兄上を偲んでいたのか?」
「そうだね……ううん、そうじゃないのかも、しれないね」

 腰に回された手に力が籠る。ぎゅうと私を抱き締めて、凪は空いた片方の手で私の頭を撫でる。

「悲しくて、いつも兄上を思い出してあんな顔をしていたのか?姐さんは」
「だから、違うんだよ」
「じゃあ、なんで」
「私は――兄を殺したんだ」
「なんで殺したんだ?」

 人を殺し慣れてる凪は、その程度の事では怯まなかった。触れている手が暖かくて、じわりじわりと胸中の凝りを溶かしていくようで。

「――私に恋をしていたから」

 私の事を知りたいと言うこいつになら、私は自分を知ってほしいと思えたのかもしれない。


***



『――透子』

 兄が呼ぶ私の名は、いつも柔らかく美しい響きを持っていた。
 私をたいそう可愛がってくれた兄は大店の材木商の次男坊。歳の離れた長兄は何かと忙しい人で留守がちだった。

『この簪は透子に似合うと思うんだ。お前は肌が白いから、この玉の色が良いよ』

 そう言って私の手にそっと簪を置く時も、兄は私の肌に触れないように細心の注意を払っていたようだった。

『ありがとうございます、兄さん』

 私が微笑んで礼を述べれば、兄はかあと頬を真っ赤に染めていた。
 優しくて甘いすぐ上の兄が、とても好きだった。機知に富み、温厚でいつも物静かだったあの人。自室でぴんと背筋を伸ばし、字を書いている事が多かった、兄。

『私はこうして何かを書いている時が、一番好きだな』
『物語ですか?』
『そう、現実では叶わない事も、文字にすればなんでも叶うんだ』

 その後兄はいくつかの本を出したが、売れる事はなく物書きを職業にすることはなかった。
 それでも、彼はいつも穏やかだった。材木商の仕事に励み、勤勉で、そして暇を見つけては私を可愛がる。

『兄さん、お散歩に付き合って下さいな』

 私は兄との散歩が好きだった。

 そう、あれは秋の事だった。
 土手沿いに咲く曼珠沙華を手折って回った。私の両手一杯には赤い花。兄は炎のようで材木を扱う我が家には縁起が悪いと少しだけ困ったように笑った。

『でも。ほらすごく綺麗ですよ』

 私は手折ったうちの一輪を、兄の手に差し出した。私はうっかり忘れていた。兄が頑なに私に触れようとしなかったことを。

『――!!』

 ぱしん、と乾いた音を立てて兄は私の手を払った。私より、兄の方が驚いた顔をしていた。

『兄さん?』
『すまない……』

 口元を覆う兄の頬が赤い。そう、兄は私に恋をしていた。血の繋がった実の妹に、欲情していた。
 そんな兄を気持ち悪いとは思わなかった。ただ、生きにくそうだと思っていただけで。
 想いを吐露してしまえば、兄はもう少し楽に生きられるのではと、そう感じて。

『兄さんは――私の事が好きなのですか?』

 悪意無く、他意無く、私はそう問うた。
 その翌日、兄は自害した。


***



「私は――殺した。この言葉で、兄を殺したんだよ」
「姐さん……」
「確かに兄は異常だった。でも、兄は誰にも迷惑なんてかけなかったよ。触れもせず、想いを告げもせず、ただ自分の中でなにもかもを殺して、静かに私を想っていてくれただけなんだ」

 私はいつも思い出す。私が殺したあの人について。

 差し出された簪の、ひたりとした冷たさ。庭の梅が咲いたと微笑むあの貌。ふざけて長兄と酒盛りをして、次の日寝込んでいた事。私の名を呼ぶ、あの――声。

「あんな無垢な人を、私は殺してしまった。私は自分の本で何人死のうとどうでもいい。でも、兄だけは違う。私が、私の生きた言葉で確かに殺した、ただ一人のひと」
「――透」

 凪が、私の名を呼んだ。
 耳元で低い声が言う。

「そんな事であんたの『唯一』になれるなら、この命いくらでも捧げるのに」
「……はっ」

 笑えた。『そんな事』と言ってしまうのが、こいつの欠落した何かなんだろう。人らしい感情を理解せずに狗のように単純に物事を捉えては、好きに生きている。そしてその単純さに、私は救われているのだ。
 慰めなんて欲しくない。だって自分で出した答えが一番強い。私は兄を殺した。私がそう思う限り、それが一番『正しい』答えなのだから。 

「あんたが大事にしていたあの言葉――あれはね、私の兄が書いた本の一文なんだ」
「そうだったのか……」

『死ぬも勝手。死なぬも勝手。――勝手を尽くして私は死のう。
 私の名前の一文字を、貴方が憶えていればそれで良い』

「あんたの、兄上だったのか」
「そうだよ。あれは私の……大切な兄の言葉」

 兄さん、私は憶えてしまっている。貴方の事を。貴方の名を、貴方のすべてを。
 貴方が望むように、一文字だけとはいかなかった。

「凪――なぎ」

 いつの間にか、涙が溢れていた。今は目の前にある温もりにしがみ付いていたい。そんな気分だ。
 だから――浅ましくそれに縋る。兄が出来なかった事を、私は簡単にやってのけてしまう。

「私の名を呼んでくれないか」

 お前は私の本来の名を知らないでいてくれよ。
 透は本名の一部なんだ。どうかもし、私が死ぬときがあれば、それだけ憶えていてくれればそれでいい。

「――とおる。透。泣かないでくれ、透。嗚呼、でも」

 ぎゅうと私を強く抱きしめて、凪は言った。

「――そんなあんたを知れたのは、とても嬉しい」

 ただ蕩けるように、声はわらった。


20170218

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