貴女は愛しいまがいもの

「若頭、隣の組の奴らが宿に乗り込んできたそうです。その場に居た若い衆で追い返しましたがそろそろ目に余りますな」

 弟分であり、一番信頼している部下が俺にそんな報告をしてきたのは姐さんの家から帰ってきてすぐの事だった。十畳ほどの部屋には既に夕陽が差し込んでいる。弟分は茶の準備をてきぱきとしながら言葉を続けた。
 まだ年若いのに生真面目な彼は俺が姐さんの家に行くのが幾分か気に食わないようで、どこかつっけんどんで面倒そうなそぶりを見せながら俺に報告をする。

「如何します?」
「そうだな……」

 俺達が経営する宿……表向きは普通のそれで、裏では女を売っている売春宿だが、其処に敵対する組の奴らが出入りするようになったらしい。最初は素性を隠して潜り込み、粗を探しては因縁を付け、何かと経営を難しくさせてはこちらの資金源から潰そうという魂胆らしい。

「いつぞや、若頭を刺したやつらでしょう。そろそろ看過するにはおいたが過ぎましたな」

 姐さんに拾われた時に負っていた傷も、そいつらにやられたものだった。部下の言うように少々目に余るようになってきたものだ。

「宿に張らせる人数を増やせ。それと、客として入れる前に少し様子を見ろ。怪しければ通すな。それくらいできるだろう」
「その手配は既に」
「それが出来るからお前は好いな、楓」
「そんな悠長な事を言っていると大事なものを失くしますよ」

 晒しの上からあの傷跡をなぞると、うぞ、っと虫が這うように其処が疼くのを感じた。憎たらしく忌々しい。所詮足下にも及ばない下らない奴らである。そんな奴らに構わねばならない事が鬱陶しくもあった。

「これは友人としての忠告ですが」

 部下は――楓は鋭い三白眼をさらに細めて言う。

「あの女性が好きならば完全に囲うか――完全に接触を断つか、どちらかの方がよろしいのでは」
「……違いない」

 ははっと笑う。
 そんな俺に楓は柳眉を顰めて、そしてつと、急須に手を伸ばして丁寧に湯呑に茶を注いだ。それを俺にそっと差し出す。

「ん、ありがとう」
「熱いですよ。気を付けて」

 楓の淹れる茶が一番美味いと思う。香りとか、そこかはかとない甘みとか、そういったものが良いのだ。彼は俺の事を心配してくれている時、いつも茶を淹れた。口を動かす間の手慰みにしたかったのかもしれない。何にせよ、有り難い話だった。こうして俺にはっきり物を言ってくれる人は少ないのだから。

「随分と熱心に通っているようですが、嫁にでもする気ですか?静様から聞きましたが、作家だとか。別に堅気の者を嫁にという前例がないわけでもないですが、向こうは承知なのですか」
「いや、うーん……」
「それともいずれ愛人にでもとお考えですか」
「ははっ素直に囲われてくれるような人じゃなさそうだな。だから面白い」
「そうですか。あ、そう言えば忘れてました。件の賭博場の事ですが……そぐわない者を始末しておきました。少しは風通しが良くなることでしょう」
「なら好い」

 湯呑みに視線を落とす。
 姐さんは知らないだろう。俺がこんな風に、夕餉の話をするように血なまぐさい話をして、友人とも呼べる部下とあんたを囲うかどうかなんて相談している事を。

『――兄さん……どうして、私を、』

 兄を殺してしまった、と泣くあの人は今までで一番綺麗だった。いつも不思議だったが、姐さんは人にも人の命にも軽薄で、ぞんざいで、自分だけが楽しければ良いとして生きているのだけれど、深い色をした陰があった。
 それは太陽が出ているのに空の色は夜をしているみたいな、奇妙な感覚で、だけど美しい。

(嗚呼、この人は人を殺したからこんなに美しいのだ)

 俺の腕の中で泣く姐さんを見て、俺はそう思った。数多の他人よりも、身近でより濃い血の者を唯一殺した事があるから、その陰が匂うように美しいのだ。そこが俺とは違う。
 一番近い血の味を知っている故の、匂い立つような色香、あの墨汁をぶちまけたような、夜の色。其れに俺は惹かれて止まない。

 そんな事を考えていると楓が湯呑みを盆に乗せて立ち上がった。

「さて、私はそろそろ休みますが――」
「おう。色々お疲れだったな。ありがとう」
「真面目な話、本当の忠告です。囲う勇気がないのならば――すっぱりと手放して差し上げなさい」
「普段から嫁をもらえと煩い奴が珍しいな」
「そうですね……。どちらでも良いです。嫁でも情婦でもね。私達の益になり、そして曳いては貴方の為ならば。然しながら、あの女性は違うようだ」
「というと?」
「あの女性を手に入れれば貴方は幸せでしょう。でも相手の女性は違う。きっと幸せにはなれない。だからこそ、貴方の益にはならず曳いては私達の為にもならない」
「……」
「物欲も性欲も、満たせばただの執着に変わる。貴方はその線引きができなさそうだ。あの女性に振り回される。何かがあれば、貴方は彼の人の為に自分を殺し、そしていつか彼の人自身を殺す。あの女性はそう言った事を望まない質だと私は踏んでいます」
「そうか」
「幸せでない人を隣に置いて、幸せである貴方はきっと可笑しい」
「そうかな」

 そんなものではないだろうか。
 人が二人いれば、生き様が違えば死に様も違い、先に望む姿も違う。
 俺は姐さんが欲しかった。彼女が例え、俺を望まなくても。そして俺を望まない姐さんを囲い、腕の中で死なせても俺自身は幸せになれてしまう。
 そんなの本当の恋や愛じゃないと言われても、それで良い。偽物の恋情で、俺は姐さんを殺せるだろう。

「双方が幸せでないのならば意味はないでしょう。少なくとも友である私はそうです。貴方にはまっとうでいて欲しい。こんな生業をしていて言うのもあれですが」
「好いた人を飼い殺すなと、そう言いたいか」
「まあ、端的に言えばそうです」

 友は剣呑な眼差しで言った。

「手に入れた途端、糸に振り回されるような木偶人形に成り下がるならば、見ているだけの方が良いのです」
「厳しいなあ」
「貴方は嫁にするならば、好きじゃないくらいが丁度良いのですよ」

 そう告げると、楓は一礼して部屋を辞した。


***



「姐さん、久しぶりだな」

 あれから色々と忙しく、姐さんの家を訪れる事ができたのは十日後だった。

「……来たんだ。もう来ないかと思ってほっとしてたんだけどね」

 こちらに背を向けたまま、姐さんは文机で熱心に書き物をしていた。

「今日は葛餅だ」
「ありがと。座布団そこにあるから、適当に座りなー」
「ああ」

 姐さんの口調は変わらず軽く明るかった。さらさらと紙を滑る筆の音が心地よい。

(囲う勇気がないのなら――か、)

 楓の言葉を思い出して、ふふっと笑う。そして、相変わらずこちらを向かない姐さんを、背後から抱き締めた。

「なに?邪魔なんだけど」

 声に動揺の色は見えない。顔色も変わらない。

「書いているのは新作か?」
「そうだよ」
「また人が死ぬ話か?」
「そうだね」

 筆を動かしたまま、姐さんが笑う。

「たくさん、死ぬかもね」

 そう言った姐さんの筆の動きは、少しだけ鈍い。どこか躊躇うように。
 抱きすくめた腕の力を緩めぬまま、姐さんの肩に額を埋める。そのままぐりぐりとこすりつけると、姐さんが呻いた。

「じゃーまーだーよ」
「姐さん」
「なんだい」
「俺に囲われる気はあるか」
「死んでも御免だね」
「そうか。残念だ」
「だいたい、あんた、好いた女を飼い殺しそうだ。怖いよ」
「なんでばれてるんだ」
「わかるに決まってるだろう、それくらい」

 はあ、と溜息を吐いて、姐さんが顔だけこちらに向ける。そして少しだけ困ったようにふっと笑った。

「凪や、私を殺さないでくれよ」
「何故」

 そんな風に訊き返せば、普通の人は怒っただろう。しかし彼女は違った。

「そうだね。あんたには――そんなの似合わないから」

 その言葉で、わかる。
 彼女は永遠に手に入らないのだろうという事が。この人の心はとうの昔に兄上と一緒に死んでいて、きっと今を生きているのは魂魄の残り滓なのだ。
 一度死んだ心は、驚くほど死生への執着が無い。
 自身を殺して欲しくない理由が、他人なんだ。自分の為に『死にたくない』と、もうこの人は言えないのだ。
 為らば。

「――ん」

 彼女の顎を捉えて、口づける。角度を変え、浅く、深く、歯列をなぞり、時には舌を絡め、味わう。唾液を溜めて、其れを吸って潤んだ唇を舌でまた拭う。
 為らば、もう。
 唯、俺は此の人の残滓を余す事なく喰らい尽くしてしまいたい。

「幸せになるのは義務じゃないと、前に姐さんは言ったな」

 はあ、と息を吐く。互いの唇から銀糸が引く。親指でそれを拭ってやると彼女は僅かに顔を顰めた。

「言ったね」

 そう応える声はいつもと同じ色。この人はやはり此処にはいないのだ。
 いつもそこはかとなく予感があった。
 この人は生きている事に飽いたら、あっさりと死んでしまうのではないかと。だからこそ毎日を面白おかしく、好きなように生きていて、その延長で俺を拾ったのだ。

「幸せは己の責任だと。他人を幸せにするなんて思い上がるなと。そう言ったな」
「……そうだね」
「俺の幸せが、あんたを飼い殺す事だとしたら?」
「……」
「現にいない、あんたを此処に繋ぎ止めて置く事ができるのならば、それだけで、俺は好い」

 ――例え、貴女が幸せでなくとも。
 続く言葉を殺すように、俺はもう一度姐さんの唇に噛み付いた。


20170412

*前 しおり 次#
back to top

ALICE+