言い尽くせない群青の痛み

 私は大店の材木商の末娘として生まれた。父も母も勤勉で良く働く人だった。
 酷い悪阻に苦しみ、難産の末にようやっと授かった子だったから父も母も私をたいそう可愛がってくれた。勿論、厳しく叱られた事もある。だけれども、其処には確かな愛があった。

「母さんはねえ、両親に父さんの所に嫁に行けって言われて本当はすごく嫌だったのよ。だって全然話した事も無い人だったから。でも、今はとっても幸せなの。だってお父さんはとても私を愛してくれているから」

 母を憐れんだのか、元々密やかに恋をしていたのかは知らない。でも、父は母をそれはそれは大切にしていた。そしてその妻との間に授かった三人の子も、等しく愛していた。

「太一郎も庄之助も、そしてもちろん、透子――貴女も、私はみんな愛しているわ」

 そんな両親だったから、家庭は暖かった。長兄も次兄も穏やかで、私も家族みんなが大好きで仕方なくて――
 だからこそ、だからこそ、兄を、殺してはいけなかった。

 兄が自害した次の日、通夜の場で母は人形のように虚ろで口も利かず、父の大きな背は震え、長兄はただ次兄の亡骸に泣きながら何故だ何故だと罵声を浴びせていた。
 そして次の日の出棺の際、死者が家に戻ってこないようにするための萱で作った仮門を使う事を両親は激しく拒んだ。
 正門から出棺しては死者がこの家に帰ってきてしまうからと、親戚は仮門から出棺するようにと何度も両親を説得したが、彼等は首を横に振った。

「もどってきていい――……戻ってきて、いいんだぞ。私は幽霊でも化物でも、お前が、息子が帰ってくるならそれでいい――……」

 泣きに泣く父を、叔父が支えた。同じように帰っておいで、帰っておいでと呟く母を長兄が抱きしめた。

「駄目だよ。父さん、母さん。庄之助を彷徨わせたくないんだ。どうか仮門から通してあげよう。可哀想じゃないか――なあ、透子もそう思うだろう?」

 兄も泣きながら言う。

「……わたし、は」

 私は――私は何も言わなかった。ただ心の中にあったのは、両親が、兄が、次兄の自害の理由を知ったらどうしようと、そればかりを考えていた。
 あれ位で死ぬ兄が悪い。妹なんかに恋をした兄が悪い。それを悟られた兄が悪い。
 兄が悪いから、皆が悲しんでいる。皆を泣かせたのは兄であって、私じゃない。
 私は悪くない。悪くないのに、もし何もかもがばれて、私が責められたらどうしたらいいのだろう――?
 兄の事を想い泣く家族を前に、私がただ一番に考えていたのは、自己の保身だった。

(嗚呼、そうか)

 これが、私。
 これが、ほんとうのわたし。
 慈しみ愛されて、望み望まれて歪みなく育てられたのに、最大級に歪む事のできた醜い生物。

『兄さんは――私の事が好きなのですか?』

 私は本当に兄を楽にしたかったからあんな質問をしたのだろうか?
 悪意を持ち、他意を隠しながら、問うたのではないだろうか。

 触れもせず、怒りもせず――穢す事もない、あのひとを殺すために。

***


 さて、今でこそ思う。
 惚れた腫れたは理屈でどうこうならないからどう仕様もない。
 目の前の男は好物にようやくありつけた狗のように、私の唇を貪る。思うが儘に迫っては、ただただ五感のすべてを私に向けて、そうして私を暴こうとする。
 
 兄とは違い、触れてはままならぬ怒りをただぶつけるようにして、私を醜い感情で穢す。
 別にいい。
 私は醜い生物で、ただ現実と向き合う事を恐れてはあんなにも愛した家族を捨てた。捨てられる前に、私から捨ててやった。自分可愛さに子を亡くした傷心の両親の傍にいてやることも、できなかった。
 そんな私に、綺麗に美しく愛される資格などありはしない。
 犯すように、穢すように、喰らうように求めてくるこの男の無様な愛は相応と言えた。

「……っ!」

 息苦しさに耐えかねて小さく抗議の声を上げたが、文字通り黙殺された。腹が立ったので凪の胸板を強めに叩くと漸く彼は顔を離した。

「……苦しいよ」
「う、すまん」
「案外、あんたは手が早いね」
「悪い」

 凪は私の口の端から垂れる唾液を親指でそっと拭った。

「姐さん」

 しかし謝りながらまた私に手を伸ばす。ほら、理屈じゃない。

「好きだ」

 好きだ、好きだと、莫迦は何度も繰り返す。
 ぎゅうと強く抱きしめられれば、私は抗う術など持ってはいない。力も、気力も、目の前の温もりに縋らない意志の強さも、何もかもを私は持っていない。

「いきなり、悪かった。でも好きなんだ。ほんとうに」

 謝るくせに、悪いとは思っていない。それ故にこいつは衝動的に事を成そうとしすぎる。
 何もかもが理屈ではなくて、私はそれが面白いと思う。
 私からすれば、恋愛というものは嗜好品に近かった。無くてもいいけれど、あれば楽しく少しだけ幸福になれるもの、という認識で。
 風呂も酒も、食事も楽しいけれどそれは自分が選ぶものだから真新しさは無い。しかし恋愛は違う。相手がいる。当然ながら相手は自分と違う考えを持っているのだから、予期せぬ事が起きてとても面白い。
 ただ、深入りはしたくない。
 恋は――愛おしいと思えば思うほど、相手を大切に愛でたくなる事もあれば、相反して酷く痛めつけたくなる事もあるのだから。

「――凪。私はあんたを好きにはならないよ」
「どうして?」
「大切な人がいるから」
「それは生者か?」
「私の中ではね」

 だからこそ、私はいつも思い出す。私が殺したあの人について。
 そうして思い出して、時折愛おしんでは悲しくなり、悲しくなっては彼の人を酷く詰る。
 私の中ではその感情はいつも思い出せば思い出すほど真綿で首を絞められるようにじっとりと苦しいのに、なぜかあの人との思い出はひどく、あまい。

「姐さん、死人はあんたの中でも結局は死人だよ」
「……」
「姐さんの中で生きてるなんて事はないんだ」

 知っていた。虚像は所詮偽物で、思い出は生きているものが自分を慰める為の道具であり、その道具を使って私は自分の罪悪感を薄めては生を紡いでいる。

「わかっているよ、凪」

 私はゆっくりと凪の体を押し戻した。頭ひとつぶん、高い位置にある彼の顔を見上げると、あの黒曜石が真っ直ぐに私を見つめていた。
 その目に見つめられると、私は苦しくなる。無いものは無い。死人は土躯でしかなく、思い出を彩るのは私の罪悪感で、兄は確かに私が殺したのだ。すると、

 ――赦しなんて欲しくないっていうのは、本当?

 ほら、私は私の『答え』に自信が持てなくなる。
 彼の頬を両手で包むと、私は懇願するように言った。

「わかっているから、そんな事言わないで。ねえ、凪。兄さんが私を愛したのは間違いだったと思う?きっと正しい人の道があるのだと言うのならば、大間違いだったんだろう。お天道様も、お釈迦様も、人の子も、きっと誰も赦してはくれない。でもね、私はあんなに綺麗に私を愛してくれた人を、他に知らない」

 声はらしくなく、震えていた。兄を亡くす前の、まだ何も知らない小娘の時のように、声はか細く、拙く。ただ感情を思いのままに吐き出せば瞳が潤んだ。

「触れもせず、怒りもせず――穢す事もない。私はそんな兄が好きだった」

 それが恋情だったのかと問われれば、違った。
 でも自害した兄はひどく安心したような顔をしていて、今までで一番幸せそうな顔をしていて、私は嗚呼、その姿に心を奪われた。
 
「私は生きている兄を好いていた――でもそれは兄妹として。そして死んだ兄を愛してしまった――それはきっと、」

 きっと?
 きっと、何だったんだろう。女として?人として?生き物として?
 どれも違う。

「きっと――ただの自己愛なんだよ。兄の為ですらない」
「姐さん」

 そう言う私を、凪はただ黙って抱き締めた。

「酷い話だろう?私はただ冒涜しかしていない兄からの愛も、お前からの想いも」
「――……っ」
「ね?凪。怒っていいよ。何なら、絞め殺してくれてもいいよ――あんたの気が済むならそれでもいいよ、ねえ――……」

 彼は何も応えない。ただ抱き締める腕に力が籠るだけ。
 その沈黙が私を責めているようで、すべてを諫めてくれているようで。私の罪を余す事なく見つめてくれているかのようで。
 私は漸く断罪されたのだと、少しだけ――笑った。


20170511

*前 しおり 次#
back to top

ALICE+