君は何も知らないと笑む

「兄さん――……」

 この女は自分を好いている男の前で、別の男を恋しんで泣く。どこまでも勝手で永遠に届かない女。目の前にいるのに此処にいないから、俺はどうしても彼女を追いたくなるし、追い詰めたくなる。
 ふふっと姐さんが笑う。

「こんなに酷い女なのに、あんたは怒らないんだね。てっきり短気を起こすんじゃないかって期待していたのに」

 真黒な瞳をとろとろと増えた涙が潤しては、生気の失せた瞳をただ美しく飾り立てる。
 ぶちまけた墨のなかの――金平糖。なぜかふとそれを思い出す。
 対面しながら彼女を膝の上に乗せて、俺は下から姐さんの顔を覗き込む。そして目尻に頬に啄むような接吻を落とした。伝う涙を吸いながら笑う。

「そんな事じゃ怒ったりはしないさ」
「そう。残念……」

 そう言ってまた微笑んで、その頬を涙が汚す。
 泣くのか笑うのかはっきりすれば良いのに、それが出来ないのが姐さんで何もかもを中途半端にして生きて来たこの人はとても――幼い。
 先程姐さんは『殺しても良い』と言ってくれたが、死ぬ事に何のてらいの無い人間の言う『殺してくれ』という言葉には意味が無いと思った。
『殺して欲しい』のと『殺されてもどうでも良い』には大きな違いがあるのだから。
 俺は「殺さないでくれ」と命乞いする人間を何度も見て来た。どんなに汚い生き方をしてきた奴でも、そうした人間の瞳には確かにぴかぴかとした綺麗な光があって、しかしそれはおぞましく、また醜いまでの生への執着であった。
 そういった人間を殺したことも、何度もある。其処に在った確かな生を摘み取ったという実感は言いようのない――幸福に似たような感覚すらあったものだ。
 姐さんにはそれがない――だから意味が無い。

「欲しい欲しいと言うわりに、あんたは自分で引いた線を越えてこないね」
「俺がそうしたら、姐さんは囲いの鳥だ」
「そうしないのは何故?お前がしたいなら、できるだろう。女一人を浚う程度の力も金も人手もあるだろうに」
「それじゃ無意味だからな」
「じゃあ、抱いてみる?」
「それもやめておく」

 きっとそれも意味がないから。
 からっぽでも俺の隣が彼女の幸福でなくても、この恋と想いを無意味にはしたくなかった。
 そう。俺もたいがいに、勝手な男なんだ。
 あんたの幸福よりも、俺は自分の恋に意味を求めている。だから彼女の冒涜的な行為を罵る権利なぞ、始めから持っていない。

「なァ、今度ふたりで何処かにでかけないか」
「なんだい、藪から棒に」
「別に、前から考えていたことなんだ。姐さんはずっと家に籠りっきりだろう。だから兄上の事ばかり思い出すんだ」
「……?」

 訳が分からないとばかりに、彼女は首を傾げる。その拍子にまた涙がぱたりぱたりと落ちる。幽鬼の方がもう少し生気のある目をしているんじゃないかってくらい、姐さんの目には光が無い。
 どこまでも続く黒。――墨のように一度着くと落ちなくて、しつこくて、滑らかなあの黒色に光を取り戻してやるのはきっと俺の役目ではない。

「姐さんを幸せにする気は――無いよ。きっと俺にはできないんだろう」
「うん」
「姐さんは前に『今は幸せだ』って言っていたな。それが表面的だろうと心から思っていようと関係ない。ただ――そうだな、兄上ばかり思い出して泣かれるのは面白くない」
「ふふ、そう」
「じゃあ、俺が兄上以上の存在になってみせようって事さ」
「兄よりひどい人に、あんたは成れるんだろうね」

 姐さんは手の甲で乱暴に涙を拭うと、いつものようににやりと笑ってみせた。

「兄とは真逆の方法で私を捕らえて、愛してくれるんだろうね――でも、それはおやめよ、凪」
「なぜだ?」
「――言っただろう。あんたにはそんなの似合わないって」
「そうか?」
「そうだよ」

 すうと瞳を細めた姐さんはぎゅうと俺の頭を掻き抱いた。

「私の為になんてそんなのおやめよ、似合わないから」

 姐さんの少しばかり早い鼓動が響く。頬に押し当てられた柔らかな感触に少しばかり居心地の悪さを感じて身じろぎすると、彼女は笑いながら身体をあっさりと離した。
 上から覗き込むように俺の瞳を見つめて、笑って、そして丹の映える唇が囁いた。

「――犬のように健気で、子どものように残酷で、どうしようもなく馬鹿なあんたが好きだよ。平気で人を殺しても、呵責は捨てないあんたは好ましい。私には無いもの。私は自分の為に兄を想って泣いてはいるけれど、兄自身を想って泣いた事はないんだ。自分勝手なんだよ、私は」
「それは駄目な事なのか?」
「さあね、わからない。きっと私もあんたも人の道を外れすぎているから」
「……」
「凪――なぎ、なぎ」

 甘くとろけるような声が何度も俺を呼ぶ。あの紅い唇が、囁く声が、魔性のそれだった。

「――きっと私はもう狂ってる。だから置いて行きな。囲うことも触ることもせずに、」

 彼女の冷たい指先がそっと俺の頬に添えられた。

「どうか――私があんたを穢す事がないように」

 言葉とは裏腹に、姐さんはそっと俺に口づけた。

***


 ――私のお遊びが、過ぎたんだ。
 ――ねえ、凪や
 ――あんたの言う逢引きに付き合ってあげる。だからそれでもう
 ――私の所に来るのはおやめ

 そんな約束をさせて、姐さんは俺を見送った。
 その数日後の今、俺は自室で仕事をだらだらとやっている。

『死ぬも勝手、死なぬも勝手――。
 勝手を尽くして私は死のう。
 私の名前の一文字を、貴方が憶えていればそれで良い』

 あの本に、あの言葉にどこまでも惹かれたのはともすれば芽生えがちになる、生への執着を押しとどめたからに他ならなかった。
 もちろん人は生きたいと願うことが当たり前で、それを願うことができない環境こそが異常なのだと理解はしていたが。

「俺はあの言葉のように生きるのは無理なんだろうか」

 売春宿、賭博場、所場代、等々。
 どんな生業をしていても、金の流れを把握していなければいけないのは当たり前の話だ。文机の前で部下がまとめてくれたそれぞれの帳簿に目を通しながら、俺は呟いた。傍らで畳に転がったまま本を読んでいる弟が、それを聞き咎めて返事をする。

「兄さんはさぁ、馬鹿なくせに頭で考えすぎなんだよ」

 そんな風に色んなことで雁字搦めになる俺に、弟は読んでいる本から顔を上げる事なく言った。

「ははっ否定はしないなあ」

 あまりにもはっきりした物言いに苦笑する。弟の言う事はいつも的確であると思うし、俺の事をよく理解してくれているとも感じる。

「だいたい、本は本。人は人、じゃない?本の筋書きのように人生うまく運ばないよね。それは紙の上の本だろうと歌舞伎の舞台だろうと同じでしょう」
「そうだなあ」
「兄さんがあの陰気臭い本の何を気に入って人生の指針にしているかは知らないけどさ。文字に踊らされるのもほどほどにしなよね。じゃないと――」

 弟はぱたんと読んでいた本を閉じ、ごろりと身体の向きを変え、俺の瞳を見てわらう。

「――ほんとに死んじゃうよ?」
「大げさだなあ、お前は。俺だって物語と現実の区別くらいつく」
「でも、じっさい、本で人は死ぬじゃないか」

 静の口元は笑んでいるのに、目が笑っていない。

「……そうだな」

 俺は姐さんの心中本を秘密裏に入手する事ができた。ずっと興味はあったのだが、件の本は既に幕府から発禁処分をくらっていたから手に入れるのは大変だった。相場の倍以上の値がついたそれは、所持しているだけでも罰せられると言うのに根強い人気があるらしい。
 俺のような荒くれものはもとより、堅気の人間もあれやこれやと良くない取引をしてはなんとかして手に入れようとする好事家が多いそうだ。

 あれは、なんというかやばい本だと思った。
 表面的には美しく悲しい恋物語なのだが、姐さんと関わった事があるせいだろうか。俺には読んだ文字からじわりじわりと毒を吸っているような気分になった。
『綺麗』と書かれた文字に、深い恨みを感じる。『愛おしい』と書かれた言葉に、激しい憎悪を滲ませる。そんな裏腹な醜悪さ――だというのに、もっともっとと物語の先が、あの滲み続ける毒が欲しくなる――そんな本だった。
 相変わらず物語のわびさびはよくわからなくて、直感的に感じたのがその文字列のやばさだっただけなのだけれど。

「僕は兄さんに幸せになって欲しいだけだよ。だからそんな女と関わるのはやめて欲しい」
「姐さんは――」
「美人で変わり者だけど、優しいんでしょ。何回も聞いたよ。でもそうじゃない」
「じゃあ、何だって言うんだ?」
「あの本――兄さんが大切にしている本の事だけど――姐さんとやらの『兄上』が彼女を縛る為に書いたんじゃないかって思えるんだ」
「……そうか?」
「兄さんは単純だからね。でも考えたことはないの?その『兄上』が『わざと』自害したって可能性は」
「……」
「死人に口なしだけどね。僕は死人を重視して、生者を大切にしない女なんて嫌いだよ」

 弟のそれは食べ物の好き嫌いを語るような軽い口ぶりで、だからこそぞっとした。言葉の本質を見抜くのは苦手だったから、そんな事を考えたこともなかった。
 でも、もし、そうだったら――?
 姐さんをあの呪縛から解く術などないのではないだろうか――?

「……姐さん」

 外を見る。
 窓辺から臨む夜空に星は見えない。

20170626

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