Sickened 09

 九月になった。
 夏の暑さがさっぱりとなくなり、さわやかな風が吹くこの季節がケイトは好きだった。

「おっと。大丈夫ですか?」

 自分で病院を行き来するのが難しくなったため、民間のペルパーを雇った。忙しい業種だろうに、とても親切でケイトは感謝を覚えた。

「ありがとう。あとは部屋に戻るだけだから」
「はい。でもケイトさん――こんなことは言いたくないんですが、独りでは色々と危険があると思いますよ」

 ペルパーは申し訳なさそうに眉を歪めて、そして言う。

「本当はすぐに入院した方がいいくらいです」
「わかってる。でも大丈夫」

 彼女が必要以上の治療を望んでいないことを、ペルパーは知っている。
 複雑そうな顔をしたのち、彼は曖昧に微笑んでケイトに別れを告げた。

「ふう……」

 最近は二階に上がるのもしんどくて、一階にある両親の寝室を使うようになった。

 ラムの姿は朝から見えなかった。
 あの気まぐれな男だ。どうせ好き放題しているのだろう。

 少しだけ窓を開けば、カーテンがふわりと揺れる。
 
 あまりにも髪の毛が抜けるので、自分で肩口まで切り揃えてしまった。
 
 庭の土が湿り、草の匂いが立ち上る。

 季節が変わった。
 死が近づいた。

 ――今わかるのは、それだけでいい。







 「ただいま帰りました」

 ギィと軋んだ音をたてて、部屋のドアが開いた。
 ソファで寛いでいたケイトは、そっと彼に視線を向けた。

 微笑む男からは、血の匂いがする。
 まるで空中に遊離するかのように、細くつたうように。
 ラムは気づかれていないと思っているようだったが、ケイトは気づいていた。

「――おかえり」

 この男はたびたび出かけては、血の匂いをさせて帰ってくる。
 ケイトを見ているだけでは退屈なのだろう。

「おや『おかえり』とは、ずいぶんと絆されたものですね」

 うっそりと瞳を細めるラムに対して、ケイトはやってしまったと思った。

「反射的に出ちゃっただけ」

 ――両親がいたときは当たり前の挨拶だったから。
 そう言い訳しようとして、どこかそれが正解でないことも理解していた。
 
 おかえり。
 もう言うこともないだろうと思っていたその言葉が、なんとも言えない気持ちにさせる。

 ケイトはこの男が嫌いだ。

「何を読んでいたんですか」
「聖書」
「おや、信仰は捨てたのでは?」
「そこまで言ってない」

 ソファの上に厚みのあるそれを置くと、表紙をなぞる。慣れ親しんだ感触だった。

「――私はもうすぐ死ぬから、怖くなっただけ」

 死に対するアドバイスめいた言葉は、聖書のなかにたくさんある。作中の人物がどのように対応したか、どんな反応を示したのか――神がなんと言っているのか。
 宗教と信仰に対する疑問の答えは、すべて聖書にあった。

「なにか救いはありましたか?」

 ラムが隣に座り、長い脚を組む。

「いえ、なにも」

 そもそもそんなものは、両親を失くしたあの日にすべて置いてきてしまった。

「そうですか。残念ですね」

 この男は息をするように嘘をつく。

「前に、」
「はい」
「その、病院で診断を受けたと言っていたわね。あなたの特性について」
「そうです。脳の色んな部位が不活発という結果でしたね」
「それって――どんな風に感じたの」

 自分の今後が決まってしまうような出来事。
 それに対してラムは動揺しただろうか。

「――特に何も」

 ラムはあっさりとそう答えた。

「医者に行かせたのは、両親でした。僕があまりにも衝動的で嘘つきで、トラブルばかり起こすからです。両親は悩んでいました――貴女のように善い人でしたから」

 ラムの大きな手が、ケイトの頬を撫でる。
 なんの感情も含まず、ただそこにいるからというだけの理由で触れているのがわかる。

「貴女なら知っていると思うんですが、親が宗教をやっていると『善人でいよう』という気持ちが強くなりますよね。僕もそうでした」
「あなたが?」
「『善人でいよう』というよりは、親がそうであるように勧めるので、そうすべきなんだろうな、という程度でしたが」

 でも、とラムは続ける。

「精神病質の特質があると知って、僕は妙に納得したのを憶えています。自分は他人と違うらしい――だから善人になるのは無理だ。絶望も悲壮もありませんでした。あったのは、ただ納得だけです」

 にこりと彼は笑った。
 最近練習していると言う、綺麗な笑顔だった。

「どうしてそんなにあっさりしてるの?」
「どうでもいいからです。自分のことも、他人のことも」
「それなのに、ご両親のためには祈れるの?」

 ケイトは神を捨てた。
 でもラムが自身の養い親のことを祈っているのは知っている。

「両親は、僕がサイコパスだと知っても諦めませんでした。見放すことも、蔑ろにすることもない。僕にとってはそれは何の意味も持ちませんでしたが――でも、誰にでもできることではないでしょう」

 自分が自分を諦めても、他人が諦めないでいてくれることは救いになったのだろうか。この男にとっても。

「ただ、そういった事実がある。だから僕は彼らのためになら祈れます。感謝とかはよくわかりません。ただ、借りはつくりたくないので」

 形式的に、手慰みに祈るのだ。
 そう言ってラムはやっぱり綺麗な作りものの笑みを浮かべた。

「どちらが良いのかしらね」

 つられてケイトも笑う。浮かべるのは、諦念にも似た感情だけれど。

「私のように感情で神を捨てるのと、あなたのように形式的に祈るのとでは」

 きっとどちらも正しくて、しかし正解ではない。

「そうそう、明日透析の装置を自宅に設置する業者がくるの。もう通うのは難しくなってきたから――覚えておいてね」

 近づいてくる終わりに、ラムはなんの感慨も感じない。

「はい。わかりました――ケイト」

 そう答えた声が、静かに夜の闇に溶けるようだった。



20240925
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