Sickened 09
九月になった。
夏の暑さがさっぱりとなくなり、さわやかな風が吹くこの季節がケイトは好きだった。
「おっと。大丈夫ですか?」
自分で病院を行き来するのが難しくなったため、民間のペルパーを雇った。忙しい業種だろうに、とても親切でケイトは感謝を覚えた。
「ありがとう。あとは部屋に戻るだけだから」
「はい。でもケイトさん――こんなことは言いたくないんですが、独りでは色々と危険があると思いますよ」
ペルパーは申し訳なさそうに眉を歪めて、そして言う。
「本当はすぐに入院した方がいいくらいです」
「わかってる。でも大丈夫」
彼女が必要以上の治療を望んでいないことを、ペルパーは知っている。
複雑そうな顔をしたのち、彼は曖昧に微笑んでケイトに別れを告げた。
「ふう……」
最近は二階に上がるのもしんどくて、一階にある両親の寝室を使うようになった。
ラムの姿は朝から見えなかった。
あの気まぐれな男だ。どうせ好き放題しているのだろう。
少しだけ窓を開けば、カーテンがふわりと揺れる。
あまりにも髪の毛が抜けるので、自分で肩口まで切り揃えてしまった。
庭の土が湿り、草の匂いが立ち上る。
季節が変わった。
死が近づいた。
――今わかるのは、それだけでいい。
*
「ただいま帰りました」
ギィと軋んだ音をたてて、部屋のドアが開いた。
ソファで寛いでいたケイトは、そっと彼に視線を向けた。
微笑む男からは、血の匂いがする。
まるで空中に遊離するかのように、細くつたうように。
ラムは気づかれていないと思っているようだったが、ケイトは気づいていた。
「――おかえり」
この男はたびたび出かけては、血の匂いをさせて帰ってくる。
ケイトを見ているだけでは退屈なのだろう。
「おや『おかえり』とは、ずいぶんと絆されたものですね」
うっそりと瞳を細めるラムに対して、ケイトはやってしまったと思った。
「反射的に出ちゃっただけ」
――両親がいたときは当たり前の挨拶だったから。
そう言い訳しようとして、どこかそれが正解でないことも理解していた。
おかえり。
もう言うこともないだろうと思っていたその言葉が、なんとも言えない気持ちにさせる。
ケイトはこの男が嫌いだ。
「何を読んでいたんですか」
「聖書」
「おや、信仰は捨てたのでは?」
「そこまで言ってない」
ソファの上に厚みのあるそれを置くと、表紙をなぞる。慣れ親しんだ感触だった。
「――私はもうすぐ死ぬから、怖くなっただけ」
死に対するアドバイスめいた言葉は、聖書のなかにたくさんある。作中の人物がどのように対応したか、どんな反応を示したのか――神がなんと言っているのか。
宗教と信仰に対する疑問の答えは、すべて聖書にあった。
「なにか救いはありましたか?」
ラムが隣に座り、長い脚を組む。
「いえ、なにも」
そもそもそんなものは、両親を失くしたあの日にすべて置いてきてしまった。
「そうですか。残念ですね」
この男は息をするように嘘をつく。
「前に、」
「はい」
「その、病院で診断を受けたと言っていたわね。あなたの特性について」
「そうです。脳の色んな部位が不活発という結果でしたね」
「それって――どんな風に感じたの」
自分の今後が決まってしまうような出来事。
それに対してラムは動揺しただろうか。
「――特に何も」
ラムはあっさりとそう答えた。
「医者に行かせたのは、両親でした。僕があまりにも衝動的で嘘つきで、トラブルばかり起こすからです。両親は悩んでいました――貴女のように善い人でしたから」
ラムの大きな手が、ケイトの頬を撫でる。
なんの感情も含まず、ただそこにいるからというだけの理由で触れているのがわかる。
「貴女なら知っていると思うんですが、親が宗教をやっていると『善人でいよう』という気持ちが強くなりますよね。僕もそうでした」
「あなたが?」
「『善人でいよう』というよりは、親がそうであるように勧めるので、そうすべきなんだろうな、という程度でしたが」
でも、とラムは続ける。
「精神病質の特質があると知って、僕は妙に納得したのを憶えています。自分は他人と違うらしい――だから善人になるのは無理だ。絶望も悲壮もありませんでした。あったのは、ただ納得だけです」
にこりと彼は笑った。
最近練習していると言う、綺麗な笑顔だった。
「どうしてそんなにあっさりしてるの?」
「どうでもいいからです。自分のことも、他人のことも」
「それなのに、ご両親のためには祈れるの?」
ケイトは神を捨てた。
でもラムが自身の養い親のことを祈っているのは知っている。
「両親は、僕がサイコパスだと知っても諦めませんでした。見放すことも、蔑ろにすることもない。僕にとってはそれは何の意味も持ちませんでしたが――でも、誰にでもできることではないでしょう」
自分が自分を諦めても、他人が諦めないでいてくれることは救いになったのだろうか。この男にとっても。
「ただ、そういった事実がある。だから僕は彼らのためになら祈れます。感謝とかはよくわかりません。ただ、借りはつくりたくないので」
形式的に、手慰みに祈るのだ。
そう言ってラムはやっぱり綺麗な作りものの笑みを浮かべた。
「どちらが良いのかしらね」
つられてケイトも笑う。浮かべるのは、諦念にも似た感情だけれど。
「私のように感情で神を捨てるのと、あなたのように形式的に祈るのとでは」
きっとどちらも正しくて、しかし正解ではない。
「そうそう、明日透析の装置を自宅に設置する業者がくるの。もう通うのは難しくなってきたから――覚えておいてね」
近づいてくる終わりに、ラムはなんの感慨も感じない。
「はい。わかりました――ケイト」
そう答えた声が、静かに夜の闇に溶けるようだった。
20240925
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