Sickened 10

 いつも真実しか述べない女医に、ケイトは密やかな感謝を抱いていた。
 それが彼女の仕事だとしても――いや、仕事だからこそ辛い現実を甘いもので包みたくなる時もあるだろうに。
 彼女はいつも通り丁寧にアイライナーを引いた瞳でまっすぐにケイトを見つめる。そして眉間に皺を寄せて告げた。

「ケイト。貴女は色々と覚悟をしているようだからはっきり言うわ。これでは血中のカリウムが多すぎる。腎機能が低下しすぎているの。これじゃあいつ心停止してもおかしくない」

 女医の言う通りだった。
 ドラッグやオーバードーズで低下した腎臓だと、カリウムの排出が難しくなる。高カリウム血症は心拍を乱し、心停止の確率を高める。

「お手洗いの回数はどう?」
「……あまり」
「そう」

 難しそうな顔をさらに顰めて、女医は深く息を吐いた。

「心電図にも高カリウム血症による異常が見られる」
「わかっています」
「随分と落ち着いているのね」
「そういうわけでは」

 ケイトは曖昧に答えた。
 ひどく怖く感じる日もあれば、何もかもが過ぎ去って凪いだ後のように感じる時もある。
 じっと右の小指に嵌められた指輪を見つめる。これに仕掛けられた盗聴器で待合室にいるラムは会話の全容を把握していることだろう。

「できることは全部して。無駄だと思うことも、きっと何か役に立つこともあるはずよ」

 事実しか述べないこの女医がそんなふうに言うほど、自分の身体は悪いのだろう。
 しかしケイトは自分が静かな気持ちで終わりを待ち望んでいることを、今は自覚していた。







「ケイティ、動けますか」
「……っ」

 後部座席で吐き気を堪えていると、見かねたラムはそっとケイトを抱き上げた。

(昔、こんなことがあったなぁ)

 うっかり眠ってしまった自分を抱き上げてくれた父と、それを見守る母。
 薄ぼんやりとした意識のなかで自分を抱き上げる男の顔をみれば、そこには何の感情も浮かんでなさそうだった。
 いつもそうだ。
 ラムは現実だけを見ていて、そしてそこに感情が伴わない。


「お疲れさまです、ケイティ」

 大して労ってもいなさそうな口調で、それでも微笑みながらラムは彼女を優しく一階のベッドに下ろした。
 ベッドボードに背をあずけ、差し出された水をのろのろと飲み干す。

「――……ありが、とう」

 送迎をしてもらえて正直助かった。
 少し動くだけで動悸が激しい。
 ぼやけた視界のなかで、ラム蒼い瞳がしっかりとこちらを見ていることは理解できた。

「――苦しいですか」

 答えなんてわかりきっているだろうにそれを問うのは『蘇生』させることに興味があるからだろうか。
 ラムの言葉に労りの色合いは見えない。

「――苦しいよ」

 でも、そう言える相手がいたということは幸福なんだろう。
 たったひとりで弱っていく身体を抱えて、失くしてしまったものを嘆いて終わってしまうよりは。

「貴女は神を信じていながら、僕のような男に縋るんですね」

 侮蔑めいた口調に、しかし腹は立たなかった。

「そうだね。だってそこにいるから」

 そして考える。この男が奪おうとしたケイトの『私的』はまだ此処にあるのかと。

「貴女はもっと潔癖かと思っていました」
「私を縛る規則も戒律も、今はもうないから」
「プライドのない人ですね」
「それでいいの、別に」

 ケイトはこの男が嫌いだ。
 でも救いを見出したのもまた、事実だった。

 少し落ち着いてきた呼吸をまたひとつ大きく吐き出す。

 ――目の前に転びそうな人がいたら、助けてやりなさい

 父の言葉を思い出してから、ケイトは何度も考えた。
 ラムを救いたいとか、理解したいという思いではない。神を信じていた両親にすら、救いはなかった。

 でもそれはケイトの主観でしかないことも理解していた。
 悲惨な終わりでも――でも道の途中に救いというものはたくさんあったのかもしれない。
 それをそっと拾い上げて、幸せだと微笑んで。そんなささいな出来事をだれかと共有する。
 父が、母が、してきたことはそういうことなのではないだろうか。
 それが何か、自分にはなかなかわからなかったけれど。

 最期まで十字架を握りしめていた父。
 その父に寄り添っていただろう、母。

 ふたりだったらどうしただろう。
 私にはもう先がなくて、それでも目の前に転んでいる人がいたら。

 そうするには、勇気が必要だった。
 しかしケイトは自分のために彼を呼ぶ――

「――ジーン」

 そこにあるのは、様々な情だった。
 美しく、おぞましい男。嘔吐する自分を品定めするように見つめていた瞳。薄い腹を撫で上げた手のひら、力のない肢体を抱き上げる存外逞しい腕。
 練習する――といった、ぎこちない笑み。

 ケイティと両親が呼んでいた愛称を何か別のもので塗り替えていった男。

 そのどれもが恐ろしく、そして哀れに思えた。
 そんな表情で自分を見るケイトをラムは嘲るように瞳を細めるだけだ。

「これまであなたを『救いたい』なんて言った人は、みんな土の中なんでしょうね」
「ケイティ。貴女もそう言うんですか?」
「言わない。ただ――」

 自分を嘲る瞳を見る。まっすぐに。

「――ありがとう」

 奪わせないためには、自分から晒すしかない。それできっと、自分は『正しく』死ねる。そんな気がした。

「もう一度、誰かに『おかえり』を言えた。それはきっと幸せなことだと思う」
「相手が僕でも、ですか?」

 ケイトは頷く。

「失くしたものは戻らない。私はきっと天国にも地獄にも行かない。その先で両親と再会することもない」

 刷り込まれた信仰は甘やかな希望も持たせてはくれなかった。
 でもそれでいいのだと、今では思える。
 ただ真実だけが、自分を救うのだから。
 
「私は最期にひとりではなかった。父と母が一緒に終わりを迎えたように。――もしかしたらそれが、神様が差し出してくれた道だったのかもしれないね」
「さんざん神を捨てたとか言っておいて、随分都合が良いですね。貴女のご両親の亡くなり方も、貴女の死に方も――結果でしかないんですよ。どんなふうに神に仕えていても、死に方はひとつだ」

 狭窄していく視界、詰まっていく呼吸。
 ふらつきだした彼女を見てそろそろ休息を挟んだほうがいいと、ラムはケイトに横になるように促す。
 細い背を支えながら、反対の手で薄い腹を撫でる。

「でも、ひとりの『死』をこんなにゆっくりと眺めたのは初めてでした。僕みたいな男に縋って、礼まで言って――それでも貴女の『私的』が奪えないのは残念でしたね」

 先に暴露されては暴きようがない。
 いや、この『私的』の暴露がラムの望むところの『蹂躙』に値したかもしれない。
 そんな考えを知ってか知らずか。ケイトはそっと笑って続けた。

「両親のあんな死に方を許した神をまだ許せはしないし、納得もできていない。でもきっと、人は生き方も死に方も選べはしない。きっと何を信仰しようと関係なく、私たちは何も選べないのかもしれない。――あなたがそうであるように」

 自分に触れるラムの手を、ケイトはぎゅっと握りしめる。

「でも確実にわかることがある。
 私は独りじゃなかった。――だからありがとう。
 あなたの幸福を、私は祈るよ」

 ラムは。
 ラムは、自分の手を握るケイトの手の小ささに、今ようやく気づく。

「ケイト」

 それは不思議な感覚だった。
 初めて血が流れるような感覚がした。ちいさく――しかし確実に。
 それは自分のなにかを変えることはないとすぐに理解できたが、何かが動くとはこういったものかとただ実感だけがあった。

「そんなことを言われても、僕は改心したりしません」

 無駄なのだ。脳の造りからしてそうであるし、自分自身も改心などしようと思ったことすらない。
 ケイトはわかってると言って笑う。

「きっとあなたは良い生き方を望まないだろうけど――どこかで救いがあるように。そうだといいなって思う。
 きっとこれが、わたしの最期の祈り」
「……ケイト」
「……おやすみ、ジーン」

 そう言って彼女は眠りに落ちる。
 規則正しい寝息は、今日はまだ大丈夫だとそう何かに言われている気がした。

「貴女も僕の為に祈るんですか。両親のように」

 養父母が今どうしているかは知らない。
 彼らが自分の為に祈るのは、きっと愛ゆえだった。
 それはわかる。

 なぜケイトが自分の為に祈るのか、それはわからない。彼女は今に至るまで自分を嫌悪しているから。
 でもこれはわかる。

 きっとケイトは、両親と同じようにラムを諦めないでいてくれたのだ。
 その事に感動も感謝もない。

 ただ事実として、それは確かに彼の中に残った。


20241223
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