Sickened 08
最初にドラッグを試した時の、眼前の色彩の鮮やかさをまだ覚えている。
世界がやたらと美しく見えて、何がおかしいのかずっとケラケラと笑っていた。多幸感に包まれて、自分は何でもできる気がした。そして薬が切れると、前よりもいっそう現実が苦しく感じられた。
こんなものに手を出してしまった事が恐ろしくて、シーツにくるまって泣いた。
だから今度は罪悪感が薄めな処方薬を乱用した。
だんだんと悪化していく身体を、ケイトは静かな気持ちで捉えていた。
血管が浮く。筋が浮く。吐く回数がさらに増え、数値を測れば規定値を下回る。
透析に通うのは体力的に難しくなるかもしれない。家に設備を整える必要がある。
ときどき、奈落の淵に立っている気分になる。
(一年保たないかもしれない)
それでも、死にたかった。
だから死期が早まるように『努力』した。
昔から思い込んだら早かった。それも悪い方に。友情に見切りをつけるのも、勉強を諦めるのも早かった。
両親がいてくれれば、それで良かった。
友達がいなくても、両親がいてくれた。
――でも、なんで気づかなかったんだろう
遅かれ早かれ、彼らは私を置いて逝くというのに。
「――うちの宗派はね、天国も地獄もない。人は死んだら塵に帰るっていう教えだった」
だからケイトの両親は火葬を望んだし、墓は必要ないとして公的機関に遺骨も遺灰も処分するように生前から手配をしていた。
その両親の意志をケイトは尊重した。
「何が正しいかは私にはわからない。でもね、縋るものが欲しかったの」
「そうですか」
ラムの事は嫌いだったが、宗教の話ができるのは嬉しかった。
神を信じている人を見るとほっとした。
「死んだら何もないんだって、当たり前に信じて生きてきた。疑う事もなかった。たぶん、それはこれからも。だから両親が――両親だったものがこの世に欠片も存在していない事を、私は信じていかなければならない」
天国があれば。
地獄があれば。
そうでなくても墓さえあれば、それに縋って泣く事ができたのに。
「人は思い出の中に生きるものですよ、ケイティ」
「それって自分で信じてる?」
「ええ」
「嘘つきね。目が笑ってない」
「それ、いつもいろんな人に言われるんですよね。今後の課題として気をつけようと思います」
ラムが意識して微笑めば、今度はきちんとできていたらしい。
ケイトが少しだけ瞳を細めた。
おや、と思う。
今日のケイトはいつもに増して無防備だ。
「貴女は僕の嘘をたくさん知りながら、呆れずにひとつずつ訂正してくれますね」
「そうかしら」
「ご両親が善い人だったんでしょうね」
「両親はね」
いつも通りのベッドの上。
その傍にはいつもラムがいて、ケイトはついに思っていた事を口に出した。
「ねえ、どうせなら今、私のこと殺さない?」
――縋るものが、欲しい
蹂躙させない。穢させないと誓ったのに、気持ちが地を這うような感覚に陥るとあっさりと覆したくなった。
目の前に簡単な自殺装置がある。苦しみは当然伴うし、尊厳は失う。
でも私に尊厳なんて必要だろうか。
――いや、必要ない
だってあんなに神様に愛されていた両親でさえ、人らしく死ぬことは叶わなかった。だからきっと私も、それでいい。
ラムは驚きも歓迎もしなかった。いつも通りに淡々とした返事だった。
「どうしたんですか、ケイティ。ずいぶんと詰まらないことを言ってくれますね」
読んでいた本をサイドテーブルに置くと、ラムはぎしりとベッドに乗り上げた。
ケイトの痩せこけた頬を、そっと手で撫でる。
自分にしては随分と長くこの少女に時間を使った。別に今終わりにしても、何の問題もない。――彼女の願いを叶えてしまう結果になる事以外は。
片手で簡単に覆えてしまう、細い首。
力を込めれば、あっさりと彼女は死ぬだろう。
「ケイト。貴女がいま信仰しているのは死です」
「そうかも」
「人は習慣の奴隷だ。一度何かを信仰することを知った脳は、簡単には矯正されません。貴女の脳が縋るものを欲するのも仕方ありませんよ」
「何それ。説得?それとも説教?」
「いいえ」
彼女の顔両サイドに手をついて、見下ろす。
まだ幼なげな瞳は、年齢に似合わずにひどく冷めている。
「もう傷が癒える事はないと思うの」
以前ベッドに乗り上げた時は悲鳴を上げたのに、彼女は何もかも諦めたように淡々としていた。
「ずっと傷が膿んでる。腐っていくだけで、ひどくなっていくだけで、時間が癒すなんて嘘。パパとママの事を忘れるのも、忘れる努力もしたくない。
私の傷が癒えていくという事は、二人の事を忘れていくってことだもの」
「……そんなふうに考える必要はありませんよ」
親指で唇を撫でる。
正直に言えば、両極端な考えだと思った。
どんなに本人が認めたくなくても、時間が経てば傷は薄れていくのだ。
「ケイティ、知ってます?昔は傷口って早く乾かした方がいいと思われてたそうです。傷口を乾かすスプレーなんかもあったそうですよ」
「何が言いたいの?」
「でも今では、傷口が体液で潤んでいる方が治りが良いとされているようです。ほら、湿潤絆創膏ってありますよね。
僕は恐怖や後悔という感情は薄い方です。だからこれは僕が見てきた人たちの話なんですけど。心の傷も同じなんじゃないか、と思う事がありますよ」
笑え、笑え。
ラムは先ほどケイトに言われた事を思い出して、丁寧に笑顔を造る。
自分でもわからない。同情というものがよくわからないから。
ただ、真実のみが彼女を救うのならば、現実がどんなに悲痛でもそれを教えれば生きようとするのかもしれない。
首を絞めて、窒息させて、蘇生させて、また殺す。
自分が今してるのは、きっとそれだ。
「倦んで、膿んで、考えて考えて――そうして乗り越えた方が、いつかきっとマシになる。痛みから逃げるより、ずっとね」
傷口は腐るかもしれない。
心の傷は深くなるかも。
自分を苛む負の思考回路は、いずれ身体も蝕んでいく。
それでも。
――自分で出した答えが、いちばん強い。
「私なんか救う気ないくせに、何でそんなこと言うの」
残念ながら、彼女はこれで流されてくれる馬鹿ではなかった。
それでも、
自分の頬に震えながら添えられる手。
初めて見る、微笑むうつくしい瞳。
「嗚呼、でも。――ありがとう」
そんな彼女の言葉がラム自身、ひどく痛く感じた。
20240709
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