静かに結んだ蝶々の玉糸

「集中しなさい」

 母の声が厳かに響く。憐花の滝は、現在近隣周辺を封鎖して雨乞いの儀の下準備が始められている。今日は蝶子の『呼び』の経過を見ようと母である静音も傍らに居た。ごうごうとたくましく響く滝の音よりも、母の声は蝶子の耳をつう、と抜けていく。

 とおり、抜け、めぐり、留まる。

 言葉には意味があるのだと、そしてその選び方が適切なのだと母に叱咤されるたびに思い知る。
 地に膝を付け、瞳を閉ざす。揺れる黒髪の谷間で白い鈴が涼やかに鳴る。がんばれ、がんばれ、とそう応援しているかのように。

「(――帰ってらっしゃい)」

 雨の子にそう呼びかける。

「(近くに、帰ってらっしゃい)」

 再びそう呼びかけた時、

「――!!」

 パキン!と大きく硝子が砕けるような音と衝撃を感じた。
蝶子はふらついた。傾きそうになるのを手ついて寸でて堪える。

「……っ、う」

 頭がぐわんぐわんと揺れた。雨の子に弾かれたのだと理解して、きつく瞳を閉ざす。

「弾かれたのね」

 母が冷めた声音で呟いた。びくりと身体が震えた。地に付いた手をさらに握りしめる。爪に砂が入って痛んだ。

「みっともない子」

 的確に急所を抉る、この、ことば。

 ――だめだ。怯えるな。逃げるな。
 
 蝶子はまっすぐに母の瞳を見つめた。言葉の重みから、逃げてたまるか。







「出来る力があって、それを行使しなければそれは罪でしょうか。ね、秋夜さま」

 軟禁という名の逃亡生活に飽きてくると、六花はつい未来の伴侶にそんな問いをしてしまう。いい加減に婚儀を済ませて欲しい。自由がないのは同じだけど、離れに缶詰より断然ましだろう。

「罪だろうな」

 六花の脈絡のない会話にも慣れたもので、秋夜は端的に応えるのみだ。六花はわらう。口の端をにい、とあげてずいと秋夜の顔を覗き込んで囁く。

「『――約束は守ろう』」

 ぴたり、と秋夜の動きが止まった。彼女が発した言葉は秋夜が先日告げた言葉だ。
 声音は女のものでも、くせ、呼吸の動き、しめりぐあい、かわきぐあい、すべてが『秋夜』の言葉だった。

「あなたはわざと『声』をつかいましたね」

 天都の一族が、天候制御の術を持つ赤橋を手元に置いておけるのはなぜか?
 それは彼等が『歌うたい』と呼ばれる声使いだからだ。
 もちろん、相手を自由自在に操れる超能力とは違う。彼等は相手の思惟を読むのに長け、私意によって干渉することを得意としている。
 技術と天才。それを半々にしたようなそんな力を天都の一族は用いる。

「音拾いの私を縛るために。でもそんなことはどうでもいいんですよ。夫婦の契りと変わらないものね」

 歌うたいの声をほんの少し拾い上げ、使う。声真似をする。それが彩咲の音拾いと呼ばれるやはり技術と天才を半ばで割ったような能力だった。
 天都のそれと彩咲のそれは非常に相性が良い。

「でもね、秋夜さま。私に与えた声で、私に救って欲しいのはいったい誰なんですか?」
「……さあな」
「さっきの質問に、あなたは行使しない力は罪だと言いましたね」
「たとえば――在る女がいたとする」

 秋夜が表情ひとつ変えずに、そう呟いた。

「その女は、言葉の重さを知っている。知っていながら、助けを乞う言葉は使わない。いや、使えないというんだろうな」
「ええ」
「助けてと、そう言わないことを望んで生きてきた。俺が助けようとすれば『あれ』の生き方を否定することに、なる」

 だから、
 だから、と秋夜は言葉を続けた。

「手伝ってくれたらと、思う」

 秋夜がほんの少し微笑んだ。六花も、同じように笑った。

 ――おなじように、わらった。







 無意味という言葉の意味を、知っていた。
 それでいて無意味という言葉にすら存在する『意味』というものを愛していた。

 無意味だと知って、無価値だと思い知らされるのをなによりも恐れていたくせに。
 理由。意味。
 そんなものを求める彼等を時には滑稽だと思ったけれど、それは自分も同じことだ。

 何も棄てられない。
(あいしているを言い訳にして)
 何にも為れない。
(守るものがあるからと、嘘をついて)

 何もかもに意味があるのだと気づいてしまえば自身が辛くなるだけだとわかっていても。
 
 それを棄てなかったのは。
 棄てられなかったのは、ただ、ほんの少し馬鹿なだけだったんだろう。


*前 しおり 次#
back to top

ALICE+