其れは音紡ぎのやわい刃

「可哀そうな瀬那の若君」

 秋夜をそう称したのは、いつか夢にでてきたあの女だ。忘れてといいながら、忘れるはずなんてないと確信して微笑んでいたあの女。
 名前も知らず、歳はおそらく母と同じくらいだったと思う。
 おぼろげにしか浮かばないその女の口元が、艶めいた不思議な光沢のある紅であったことだけは(奇妙なことに)憶えている。

 六つの時だっただろうか。
 天都の一族が有する『歌うたい』の力(語弊があるがこれが一番的確な表現だと思う)を制御できずに、周囲の人間を傷つけたことがある。
 
 それは悪意ととられても仕方がなく――今も、時折何かを壊してしまう事があるように――父王は早いうちに『処分』した方がいいのではないかと、そう思ったらしい。父王が非情だったわけでも愚劣だったわけでもない。そして早計だったわけでもない。
 ただそれだけ、秋夜の『歌』がひどいものであったというだけのはなしだ。

 花に枯れてしまえ、と呟けば周囲の土まで死んだ。
 嫌いだ、と思えばその相手が酷いけがをした。
 ぶつけた柱の角に痛い、と思わず漏らせば瞬く間に亀裂が入った。

 他人が聞けば笑ったかもしれない。
 でも秋夜に関わる人間には笑いごとではなかった。付き人も、世話役の女御たちも、臣も、みな秋夜を恐れた。
 それは彼が子どもであったからで。子どもの無垢な悪意は、とても痛く重いものだと大人たちが知っていたからだと思う。

 母だけだ。
 彩咲和花。先代花姫。秋夜の母。
 彼女だけが、傷だらけになりながら息子を必死に守ろうとしてくれた。

 しかしながら――父王は違った。
 数日の後に座敷牢への隔離を命じられた。

「これを――仕舞え」

 まるで物を捨てるかのように、父は言った。秋夜は逆らわなかった。







 もう、疲れ切っていた。
 猿ぐつわを噛まされた。すぐに唾液が滲んで気持ち悪かった。ろうそくの炎がゆらゆら揺れていて、牢を暗く照らしていた。

 ふつか、みっか、よっか。

 運ばれてくる食事にも手をつけずに、ずっとそこで端座していた。

 いつかめ。あの女が、現れた。

「――秋夜様」

 鈴を転がしたような、涼やかな声だった。
 女はおもむろに手を伸ばして秋夜の猿ぐつわを解く。

「だれだ」
「名乗るほどのものでは御座いませんよ」

 女の手が優しく頭を撫ぜる。

「身体が冷えておいでですね」
「……っ」

 女の手は、冷たい。しかし久しく触れた人のぬくもりだった。

「和花様が、心配していらっしゃいました」
「ははうえ、が」
「ええ」

 女は首を傾げて瞳を細める。秋夜は女をまじまじと見つめた。項で黒髪を色んな飾りでまとめて、長いひと房を前に流すという不思議な結び方をしていた。薄い紅を引いているのに、しぐさも、言葉も、どこか匂い立つような色香を含んでいる。
 しかし細めて微笑むその瞳だけは、母の浮かべるそれにどこか、似ていた。
 

「おれをころしに来たの?」

 そう問えば、びしりと音を立てて女の頬が浅く裂けた。

「あ……!」
「あら……」

 女は気にしたふうもなく、頬の血を手で拭う。
 
「お気になさらず。このくらい、痛くありませんよ」
「おれを、殺しにきたの?」

 二度目は、少しだけ慎重に口を開いた。女は赤ん坊のように澄んだ黒目をぱちぱちさせて面白そうに問う。

「……何故、そう思うのですか?」
「みんなを傷つけたから。それにおとなのひとは、皆おれのこと嫌う」
「確かに私は貴方の味方ではないかもしれませんね」

 女は可憐な仕草で頬に手を当てて考えるそぶりをみせた。髪に飾られた……鈴だろうか?それがころころと澄んだ音を立てる。

「そもそも、良い大人とも言えないかもしれません」
「おまえ、変なおんなだな」
「そういう言い方、信夜様にそっくりですねえ」

 女が口にした父の名が不思議だった。親しげに、いとおしげに呼ばれた王の名。
 ほっそりとした腕が、秋夜を優しく抱きしめた。
 秋夜がびくりと身を竦めると、女は笑った。

「大丈夫。貴方を殺しはしません。殺させもしませんよ」
「……なんで」
「なぜでしょうね。ただの同情かもしれません」

 彼女が放つのは常に飾らぬ言葉だった。真実で、現実で、優しくなく、正直だった。

「可哀そうな瀬那の若君。私は貴方をお救いします」
「なんで?」
「私が嫌だからです」

 だから彼は――可哀そうだから、なにより自分が嫌な思いをしたくないから救ってやるというこの女の言葉を、信じた。

 女は秋夜を抱きしめる腕に力を込める。

「あ、う……」

 ひとのぬくもりだ。

 勝手な言い分を撒き散らして、押し付けて、それでも自分を救わんとするこの女のそれに、秋夜はいつも自分をあいしてくれた母の面影を重ねた。

「う、ああ……」

 限界だった。

「うあああああ――――……!!」

 溢れた涙と共に、他人と己を傷つけ続けてきた声が喉からせり上がってくる。意味すら伴わず、わき上がるそれは確かな叫びで、嘆きで。
 秋夜は初めて人に縋ってないた。

「理由なんて単純でいいのですよ。秋夜様」

 嗚咽を漏らす子どもに女は言う。

「死にたいなら、死ねばいいです。でも僅かに未練があるならそれにお縋りなさい。縋って、傷ついて、その未練と執着を守って、泥だらけになってもいい」

 彼女は鳶色の瞳を覗き込んで言った。

「みっともなくお生きなさい」

 女は鈴の飾りのついた簪を引き抜く。しゃらん、と可憐な音がした。秋夜の手にそれを握らせる。小さな手の中で白い鈴が涼やかに鳴った。

「貴方は私の執着。そして未練。だから私は貴方をお助けします。この鈴は、そう――都合の良いお守りです。未練と執着が貴方を生かしたという、それを形にしたもの。もし貴方が私みたいに勝手な都合で、他人を助けたいと思ったら、この鈴を思い出して」

 忘れないで。

「執着と未練は、きっと貴方を生かすでしょう。どんなに醜い形でも」

 忘れないで。

「私が出来るのは貴方を座敷牢から出すということだけ」

 だから忘れないで。

「救うなんて言葉は、他意なく他人を苦しめるだけだということを」

 きっと、此処を出ても色んな檻が貴方を囲う。
 私がするのは貴方をまた別の檻に放り出すということなのだと。

「おまえは、」

 この女がどうやって此処に来たのか。誰なのか。何故自分に執着するのか、秋夜にはひとつもわからなかった。
 ただ手に握らされた鈴が優しく鳴って、その音色が美しくて。

 理由なんて単純でいい。

 誰でもいい。

 この鈴を贈りたいと思えるひとがいつかできるのなら、生きてみたいと思っただけだった。

 それが、どんなに醜く、みっともない生き方だとしても。


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