微かに触れた遠心の声音

「不憫だな」

 青年を、男はそう評した。








 から、り。

「……」

 踏みしめていた瓦が乾いた音を立てたとしても、沙紀は眉ひとつ動かさない。
 高い高い、屋根の上。見上げるのは嫌いだけど、見下ろすのは好きだ。口元を覆っていた『無粋』な布を顎までずらし、新鮮な空気を肺腑に取り込んだ。
 それを見ていて顔をしかめたのは、昼間は同じく化粧師として、そして夜は蛇の目として共に働く弟弟子の咲月(かげつ)だ。

「兄さん。音立てないでくださいよ。あと、布も取らないでってば」

 昼間同じ人間に師事しているとして、彼は沙紀の事を「兄さん」と呼ぶ。そこに敬意などは一切含まれていないが。

「はあ」

 無粋だ。

 夜で、星が出ていて、風は冷たく、高い場所にいて、何が悲しくてこんな黒衣に身を包み、溝鼠のようにこそこそしなければいけないのか。
 

「……さつきちゃん、うるさい」
「さつきって呼ばないでください」

 咲く月でかげつなんて、読みにくい名前をこいつに付けたのはいったい誰だろう。父親だろうか。男らしくも女らしくもない、中途半端な名前をつけたものだと沙紀は思う。

「あ、なんか失礼な事考えてますね」
「気のせい」
「言っときますけど兄さんの『沙紀』だって充分女性的ですからね」
「はいはい」

 自分は思っているより考えている事が顔に出やすいらしい。六花にも咲月にも看破されてばかりだ。

「それにしても、今日は留守みたいですね」

 同じく踏みしめている屋根に視線を移して、咲月は言う。

「そうみたいだね」

 瞳を細める。

 沙紀と咲月が偵察しているのは餌人の解放を訴える一派の隠家だ。このところ、露骨な活動が目立つため危険視されている。

「とんだ慈善事業だと思いますよ、僕は」
「慈善事業?」
「『餌人は、かわいそう。だから助けてあげなければ』。餌人からしたら、それ自体がいい迷惑だなんてこいつらは考えてもいないんでしょうね。そしてあわよくば解放した彩咲の一族から旨い汁を吸おうと思ってる」

 現状に不満を感じない餌人がいないわけではない。しかしながら、彼等は優遇されれいるという事実もある。
 天都に管理されていれば、剣という護衛がつく。そして彼らの姫君は未来の王の后としての地位も約束されれいる。いわば彼等は閨閥だ。

「ばかみたい」

 用事は済んだとばかりに、咲月はあっさりと屋根から飛び降りた。沙紀もそれに倣う。この程度の高さはなんてことはない。

 あとはこの無粋な黒衣を脱いで、平服に戻るだけだ。

「あ、さつきちゃん」
「はいはい、今度は何です?」
「少し先に戻っていてくれる?無収穫じゃなくてなによりだよ。確保『一』だ。籠と縄、用意して」
「あー」

 彼はそれで何かを察したようだった。
 ちらり、と咲月が沙紀の背後に視線を移し、その人物を見て笑う。

「ほんと、ばかだよね」


「――馬鹿、だと?」


 震え、湧き上がる怒りがその声からは聴いてとれた。沙紀は右手の煙管をひとつ振るった。
 しゃん!と澄んだ音を立てて仕込み針が露出する。

「咲月、はやく」
「了解」

 たん、と地面を軽く蹴って少年は高く跳躍する。そのまま屋根伝いに闇へと消えた。

「口が悪くて申し訳ない。あれは俺の弟みたいなものでね」

 振り返ると、怒りに震える男がいた。いかにも正義感あふれるといった感じだ。
 身なりも良い。帯いた刀も立派なものだ。

「それで?俺に用なんだろ。高尾さんだっけ?」

 数日間、この男を監視していた。しかし、隠れてではない。時にあからさまに、監視されているとわかるように沙紀は行動していた。
 そして沙紀の身分と立場がわかれば、この男は必ず食いついてくる。

「葉良乃沙紀か」
「ああ」
「餌人の姫を解放しろ」

 男は柄に手をかけたまま、繰り返す。

「お前にはそれができるのだろう?」
「そうだね。確かにお前の言うように『沙紀』はそれが出来る立場にいる」

『沙紀』は花姫の監視を担う葉良乃の嫡子が代々継いできた名だ。男性でも女性でも通るようにと造られた通名である。

「『沙汰せよ。物事の善悪をその胸に紀せ』それがお前の役目だろう?」

 高尾が興奮したように言う。

「葉良乃沙紀。お前は何を紀した?天都を何故野放しにしている?あのように弱い少女を囲っては殺す王家に、何故加担する」
「質問が多いね」

 闇慣れした沙紀の瞳は、男の表情をはっきりと捉えることができた。正義を語りながら、瞳孔は不気味に開いている。

 どうせやるなら、今がいいだろう。

 勝負は一瞬でつく。

 地を蹴り、相手の懐に長針を差し込む。勿論、加減を忘れずに。

「……―――ぐっえ、ぇ」

 針には麻痺毒が塗ってある。呼吸器系統に異常をきたしやすい調合で、吸っても吸っても肺に酸素が入っていかない感覚と、手足先端のみの痺れが男をあっさりと狂乱へと陥れた。

「な、にをっ。何をした――!なにをしたあぁぁぁ」
「死なないよ。大丈夫」

 のたうち回る男を冷めた目で見降ろして、沙紀は呟く。

「お前は優しいね」

 返答は期待していない。それでも沙紀は言葉を続けた。

「だからお前はかわいそうだ」

 正しいと思われる事が正しくない世の中に生まれて。

「でもきっと、お前は知らないんだろう?彼女が籠に留まる理由も、餌人達の幸福が何を意味するのかも。何も知らなくて、でも自分の知りうるすべてで彼等を救おうと考えていたんだろう?」

 無垢で無知で、優しい。可哀そうな男だ。

「『ひとつ』のなかの沢山の選択を知らないお前が、あわれだよ」
「可哀そ、だと……?わ、わたし、を憐れむ、のか――」
「喋らない方がいいって。話しかけておいて言うのもなんだけど」

 どこからそんな力が湧いてくるのか正直呆れる。こちとら疲れているのだから、手間を掛けさせないで欲しいくらいだ。『慈善活動』なんかして、仕事を増やさないでくれと思う。頭を覆っていた布も取り払い、長い髪を手櫛で整えながら彼は溜息を吐いた。

 高尾は呻く。呻き、呪詛を吐き出しながらも声を、出した。

「不憫……だ、な」

 苦しみ、えづきながらも、その言葉だけははっきりと聞こえた。







 男は青年を、不憫だと評した。

「――知ってるよ」

 沙紀は瞳を伏せて、小さく笑った。

 高尾はこう言いたいのだ。

 欲張らなければ、なにかひとつは救えるくせに、なにもかもを選ぼうとする。

 ひとつのなかのたくさんを、選ぶ。

 その強欲さは、不憫だと。


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