水底にたたずむ鈴の音を
「泣かないのよ、沙紀」
貴女を姉のように想っていました。貴女を友人だと信じていました。だから私は貴女をとても愛していました。
いつでもお優しく、愚図な私の手を引いては道を指し示してくださったお方。
沙紀として御傍在れたこと。身に余る幸福でした。
貴女の仰ることはすべて受け入れました。貴女の為に自ら他人に手を下す事もありました。そしてそれを悔いたことなど、ありませんでした。
「わたくしは、わたくしの生を全うします。ああ、なんてこの日が待ち遠しかったこと」
外は土砂降りの雨でした。こうしている今も、屋根を激しく叩き付ける雨音はどんどんひどくなっていきます。
私はそのことを危惧していました。
そしてその通りになりました。貴女が選んで――いいえ、望み続けてきた道を進むことになると、貴女の顔をみて理解しました。
貴女が隣にいることを望んだ『人外』を恨みました。
貴女は私を選んではくれないのですから。
花のように微笑んで、ほっとしたように穏やかな声で私の名を呼んで。そして姉のように私の頭を優しく撫でて、貴女は言いました。
「わたくしは、雨の子のもとに参ります」
永遠の別れでした。一生の別れでした。
私は頭を垂れました。見送るべく、頭を垂れました。
「さようなら」
――ええ、さようなら
*
瀬那という国は名に役職や立場が組み込まれる事が多いのだと思う。他国の友人と話していると同じ名称の人物が多くて混乱してくるらしく、少し笑える。前置き無く昔話を聞かせたら、案の定友人は顔をしかめた。
「え、ちょっと待って。誰?それ君の話じゃないよね?明らかに女のひとだよね?その『沙紀』って」
職務で瀬那に長期滞在している隣国の友人――長柄朝希と話しているとよく、そんなふうに話を中断する事がある。
「先々代のそのまた先代くらいの話だよ。でも、まあ。この国の御伽噺みたいなもんかなー正式な書類には残ってない」
沙紀にとって、朝希は貴重な喫煙友達だった。彼の身の回りにはあまり吸う友人がいない。休日に隣国の友人とこうして煙管を咥えながらくだらない話をするのが、彼は好きだった。
「ふうん……なんていうか、胸糞悪い話だね」
紫煙を吐き出して、朝希はなんのてらいもなく言ってのける。
「でも、あり得ない話じゃないって僕は思う。今の君の――六花への執着をみてると」
「そ?」
あっけらからんとした沙紀の返答にかんこん、と音を立てて朝希は灰盆の口に雁首を軽く叩き付けた。いらついているのだ。
「僕、こないだ蝶子に会ったんだよ。甘味屋に寄っただけだけどさ。で、訊いたわけ。『雨期があったら楽だと思わない?』って」
「蝶子はなんて言ってた?」
「『楽だろうけど、雨が自然に降るものだとは思わない』って」
「だろうね」
あの蝶子らしい答えだろう。だいだい、朝希の質問はこの周辺四国の根底を覆しかねない質問である。沙紀は言う。
「なんだって、そんな質問するんだよ。お前の国だって、姫さんが毒雨を抑えてるんだろう?」
「だからさ」
肩をすくめて、彼は溜息を吐いた。
「君のように『沙紀』を受け継ぐ者。当然のように祈雨師で在ろうとする蝶子。六花が花姫である理由。それってみんな当たり前なの?」
「……」
「沙紀は思ったことない?なんで自分が沙紀を受け継がなくちゃならないんだって。さっき聞かせてくれた御伽噺。実のところ信じてるんだろう?」
朝希の言う通りだ。沙紀はその御伽噺は真実だと信じている。公式の書類に残らない理由がそこにはある。
花姫が単に雨の子に捧げられただけならば――ひどい話だが――問題ではないのだ。
『永遠の別れでした。一生の別れでした。
私は頭を垂れました。見送るべく、頭を垂れました。』
『――ええ、さようなら』
御伽噺に残らなかった最後の一文を、沙紀は知っている。
『そして彼女は後ろ手に隠した刃物で、花姫の喉を切り裂きました』
この後、彼女は――沙紀は花姫を自らの手で殺したのだ。
何年も何年も庇護してきた家族にも等しい存在を雨の子に奪われる事に絶望して。
「理由なんて、単純だよ」
彼が沙紀を受け継ぐ理由。花姫を――六花を見守る理由。
「俺は六花が好きだから」
あのこの強さが、どれだけ自分を救ったか。それを知ったから。
一生真名が名乗れぬ人生でも、構わなかっただけの話。
*
そう、それを悟ったのは昔の話だ。
その時六花はまだ十四歳。沙紀は十六だった。
天都の邸に軟禁される前の彼女は、まだ餌人の里にある彩咲邸で暮らしていた。早くに母を亡くし、多忙な父を持つ六花は気丈で――時に極端にもろかった。
彼女の父は亡くなった細君をそれはそれは愛していたそうだ。そしてその面影を惜しんでは、娘に影を重ねては微笑んだ。「お前はあいつにそっくりだな」と。
なにひとつ悪意などない言葉で、不埒な事を働いたわけではない。
しかしながら顔を合わせるたびに口にする言葉は、六花を静かに蝕んでいった。
「お前は雪乃にそっくりだ」
「なにからなにまで」
「私はそれが嬉しいよ。まるで雪乃がまだ、そこにいるみたいで」
六花はその場では気丈に微笑んでいても、父と顔を合わせた次の日には必ず体調を崩す。
「おい、大丈夫か」
そうなると、世話役の女御たちをみな下がらせ、沙紀以外と関わろうとしない。青い顔をしてえづきながら、それでも彼女は縋ることはしなかった。寝台で身を丸めて、六花は繰り返す。
「平気。こんなの、なんでもない……」
それでも彼女は彩咲に関わる人間にあからさまな拒絶反応を示す。そうなると主治医と監視役である沙紀しか室に立ち入ることが難しくなった。ふたりきりになったとき初老の主治医は沙紀に言った。
「『私は平気だ』と、六花様自身が思い込もうとしていることがなおさら良くないのですよ。人はね、泣いたり怒ったりして自分が受け入れられないことを消化するもんです。でもね、あの方は吐き出さない。全部ご自分の内側に閉じ込めて、五臓六腑で消化しようとなさる。身体は悲鳴をあげて、熱がでる。吐こうとする。時に身体というものは、目に見えず質量すら伴わない思考すら外に吐き出そうとするものです」
――私はちがう。私はならない。私は、私は――
それは六花が自身に課した呪詛だった。
「私はああはならない。絶対に、ならない。お母様みたいには、ならない」
彼女の母、雪乃は弱いひとだったと聞く。
手弱女という言葉がぴったりだろうか。夫を立てながら、自身を守ってもらう事に長けていた人物だそうだ。
娘を愛してはいたのだろうが、母親というよりは姉妹のような……どこか拙く甘えのある、同性の家族という奇妙な接し方だったようだ。
六花なりに思う所がたくさんあったのだろう。だからこそ、母の面影を重ねられることなど苦痛でしかなかったに違いない。
「だから、平気」
「……お前は馬鹿だな」
なにが平気なものか。
沙紀として生きる事を定められて、沙紀として生きる事を求められる彼だからこそわかる痛みだったのかもしれない。
それでも『わかるよ』とは言えなかった。『お前を理解している』とも言わなかった。
彼女の苦しみはすべて彼女のもので、その心に降り積もった痛い塵を、一分の隙も逃さずに拾い上げることなど、できはしないのだから。
「馬鹿でいいの」
「よくねえよ」
毎回寝込むほど嫌なくせに、何故父にそれを言わないのか。
家人を避けるほど苦痛なくせに、敢えてそれを選ぶのか。
見ていてもどかしくなるほどの、彼女の、試行錯誤。
「俺は、辛い」
寝台で蒼白な顔をして、なお微笑む六花の手をすっぽりと包んで、そこに額を預ける。
まるで祈るように。
「俺は、辛い。自分を見ているみたいで、嫌になる。お前は俺みたいになるな。まだ引き返せる」
沙紀、花姫、祈雨師、剣に王。受け継がれていく多くの呼称。数多の失敗のなかで見出した『彼等』の答え。
沙汰せよ。物事の善悪を見定めその内に紀せ。名づけられた名の如く、花姫を監視していた沙紀としての自分に問う。
彩咲六花の試行錯誤。
これは、良い事か?
何度も何度も自問して、答えはすでに彼のなかにある。しかし口にするのは躊躇われた。こうなってまで、六花が守ろうとしているものが何なのかそれがまだわからなかったから。
「……ふ、」
荒い呼吸の合間で、彼女は少しだけ息を吐くように哂った。顔をこちらに傾ければ額に浮かぶ汗の玉が、いくつか眦を伝う。
「そんな顔しないで」
沙紀は立ち上がり寝台に腰を下ろす。六花がそっと彼の頬に手を添わせた。
彼女が呑み込もうとしている呪詛も、常に微笑む理由もなにもかもが痛くて。見えぬ傷からどろりと何かが溢れ出すような、そんな感覚がした。
「沙紀。言葉は重いね。言葉も、名前も、なにもかもが私には重い。それでも私は御父様の言葉を、呑み込んでしまいたいの」
「呑み込む?」
「御父様が、どんな気持ちでいるのか。私はあの方の言葉から味わってみたい。痛いのか、優しいのか、知りたい」
「……六花」
寝台から見下ろす六花の顔は微かに微笑んでいた。
「言葉から、逃げずにいたいだけ。だから馬鹿なんでしょうね、私は」
「俺は……」
彼もまた、そうして生きてきた。そして『壊れた』。
壊れて、大事なものをなくした。
六花もそれを知っていて、なのに同じ道を歩もうとする。
所詮は同族嫌悪なのかもしれない。六花にかつての己を見て、彼女もまた、かつての沙紀を真似るように傷跡をなぞる。
「沙紀。いつか私に御伽噺をきかせてくれたね」
「ああ」
「もし私が――私があの花姫と同じようになったら」
彼女はわらった、
「――同じように殺して」
そう乞われたのは初めてではなかった。
自身の生き方を選べない彼女が、望んでいる結末。叶わないと知っていて、口にする言葉。
今なら、花姫を殺した『沙紀』の気持ちがわかる気がした。
寝台の上で、ふたりはそっと抱きしめあう。傷つくと同じように痛くて、乾かない傷を無視して走り続けて、傷はまだ癒えない。一生消える事のない、名という呪縛と、言葉。
「――馬鹿を、言え」
殺さないと、そう約束することはしなかった。
「言葉は、重いね」
六花はそう繰り返す。
「だから、きっといつまでも信じていられるんだよ」
例えそれが呪詛であっても。
言葉には力がある。
彼女はそう言って、また、わらった。
沙紀に殺されることを願って、
わらった。
*前 しおり 次#
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