瞳を覆った優しさには、
あきちゃんと彼を呼ぶことを止めたのには沢山の理由があった。
天都が――秋夜が花姫を邸に迎える事が決まった五年前。まだあどけない十三歳の夏の日。
雨乞いを終えて、いつものように雨傷から溢れる血に塗れて、ひとりで蹲っていたあの日の夜。
自分が降らせた雨は、いつも冷たかった。
絢爛な装束は脱ぎ捨てて白い襦袢がみるみる赤く染まるのをぼんやりと眺めていた、誰もいない野原で、百合の花が甘い香りを放っていた。そこに身を横たえて、瞳を閉ざす。
毒のように這い回る百合の香りが錆びた鉄の香りと混ざって、わらった。
「なにを、している」
頭上から幼馴染の声がした。傘を差しだしながら、彼は蝶子の顔を覗き込む。
「探しに来てくれたんですか?」
秋夜の呼吸が僅かに乱れているのに気づいて、くすりと蝶子は笑った。
いつもは雨乞いが終わると雨傷の治療の為に手当が行われる。今日は手当を受けずに、こっそりと抜け出してきた。こんな誰もいないような場所を選んで。
「早く傷の手当てを――」
言いかけて、秋夜は息をのんだ。
彼女の手から、首筋から、細い脚からも出血して周囲の地面を鈍い紅色に染め上げている。
「良いんです。今日は、このままで――」
天に向かって手を伸ばす。その様は天に向かって花開いた白木蓮が雨を受け止めるような、やわらかさとやさしさが垣間見えた。
「蝶」
この人の声が私を殺す。無理をするな、とどこか苦しそうに諭す言葉。蝶、と呼ぶ声。
どんなにせわしない雨音のなかでも、彼の声は死なない。生き抜き、やわりと耳朶を噛む。
「蝶子」
「なんです?」
「祈雨師は辛くないか」
「辛くないですよ」
「俺は――もうやめて欲しくなる。こんな傷だらけにならずともきっといい方法がある」
蝶、と声は続ける。
「止めてしまえばいい」
今思えば、幼い彼にしては軽率な発言だった。やがて国を治めるであろう少年は跡継ぎとしてではなく、彼女の幼馴染としてそう言ったのだろう。
そして、それが秋夜の本音でもあるのだ。
「私は――祈雨師ですよ」
口元が笑む。
何を言うのだろうと、おかしくなった。けたけたと笑いたくなってしまう。
「私は赤橋蝶子である前に、祈雨師なんです。それが幸せでしあわせで、仕方ないんですよ、ほんとうに」
誰が知りえるだろう。
決められた道を嘆く若者が多いこの国で。この場所で。
ここに立ち、この道を選んだことを幸福だと思えるそのわけを。
「ねえ、だから私をころさないで」
「蝶――」
蝶、と呼ぶ声はじわりじわりと彼女を蝕もうとする。
やめてしまえという彼の優しさ。恐ろしいものは見たくないという弱音。頑なに蝶子を護ろうとする、意志。
歌うたいの、こえ。
「……秋夜」
前髪をかき分けて、彼の手が額に触れる。
「なんだ」
「私は祈雨師にしかなれない」
「……知っているよ、だからもう」
表情に乏しい瞳が、ほんの少し悲しそうにわらうのを見た。
「さよならだ」
*
雨の子の気配が舞い降りた暑い夏の日。雨乞いの儀が行われた。
ざあざあと一定の調子で音を囃す水流。その滝の下流にできた湖に、蝶子はそっと素足を伸ばした。
白い足は水に沈む事無く、波紋を揺らしながらしかし大地のように彼女を受け入れる。
――リン
水流から生じるわずかな風が、蝶子の髪を揺らした。揺れる鈴。流れ滑り落ちていく音。
湖の中心に立つと、蝶子は静かに瞳を閉ざした。神に祈るように両手を組みただその天の意識を読む。
(おかえりなさい)
雨の子が、泣いている。
――かえってもいいの
(帰っていらっしゃい)
ふわり、と水たちが細やかな粒となり空中で花が咲くかのごとく浮き上がる。蝶子を守るように彼女を抱擁しながらしかし蝶子の着物は一切濡れることはなかった。
鈴の音と共に波紋が起きた。次いで水しぶきがあがる。
それを眺める観衆たちが感嘆の声を漏らす。
「子がなくばみよ。そなたの子はここに在り」
三味線に琴、笛の音。
それらに合わせて蝶子は水と共に歌い、舞う。
「花を手向けよ。手に合う花を。嬰児の、小さな手に合う野の花を」
空が曇り始めた。観衆のざわめきが大きくなる.
「雨が降るぞ!」
「雨だ!」
「祈雨師様、万歳!」
「瀬那国、万々歳!」
声高らかに叫ぶ声も、蝶子には聞こえてこない。今わかるのは、雨の子の言葉だけだ。
――さようならとイわれたのもうコこにはかえっテこラれないってイいうの。あいしてるわあいしてるわあいしてるあいしてるアいしテルアイシテルダカラ花をちょうだいハナヲはなをハなを花を、
花ヲ――!!
雨の子のつんざくような叫びに頭が割れそうになる。麻痺した耳と、自然と溢れてくる涙を拭おうともせず、蝶子はそれでも舞を続けた。
「さあ、花を」
蝶子は歌の最後の語句を紡ぐ。
「今花を手向けよう。この地をお前の涙で濡らすために」
ざあ、と盛大に水しぶきをあげて、舞が終わる。
そして、雨が降り始めた。
*
雨乞いが終わると、蝶子はすぐに屋敷へと戻る。傷の手当を受けるためだ。
今回は二の腕の裂傷が酷かった。傷が深いのと、出血が多いので医師が糸と針を取り出す。縫うようだ。
「さあ、蝶子様。薬を」
差し出された丸薬を呑み込んで、黙って手当を受ける。
それを傍らで眺める母も、いつも厳しい表情を緩めどこか安堵した様子だ。
「今回も無事に終わりましたね。ご苦労様です」
「はい。ご指導ありがとうございました」
母に労いの言葉をかけて貰えるのはとても嬉しい。思わず顔が綻ぶ。
「雨の子は、なんと言っていましたか」
これは毎回訊かれる事だ。
「花を、くれと」
「そう……」
「あの、お母様」
「なんです」
「お母様が祈雨師の時も、雨の子は同じように?」
「ええ『花を』と繰り返していました」
「雨の子は何故、瀬那に帰るのを嫌がるのでしょうか……」
「それは、」
母が瞳を伏せた。
「辛い目にあったからに他ならないでしょうね」
「辛い目……」
「蝶子。私たち祈雨師は雨乞いの度に傷を負うでしょう」
舞を終えると身体にはいくつもの傷ができている。大きいものも、小さいものも含めてたくさんある。
「それがこの国の咎なのでしょうね」
母はそうとだけ言った。
蝶子は雨の子の言葉を思い出す。
さようならと言われたの。
此処にはもう帰ってこれないって。
愛してるわ。
愛してるから。
だから、花をちょうだい。
少しだけ、笑う。
雨の幼子の言葉は、在りし日の自分のようで。
『さよならだ』
彼にそう言われて微笑むしかできなかった壊れた自分のようで。
彼はさよならだと言った。物理的な意味ではなく心の距離という意味で。
母の言葉の通りだとすれば、祈雨師というのは咎を一身に負うべき存在なのだろう。
そしてこの国の咎を負う事をやめてしまえばいいという秋夜の言葉はやさしい凶器だった。
彼の想いも、願いも、そのすべては痛くて痛くて、嬉しいくらいに幸せで。
この人の声がいつか私を殺すのだと思った。
無理をするな、とどこか苦しそうに諭す言葉。蝶、と呼ぶ声。
あれは――と大事そうに花姫を呼んだ低い音。
それもまた構わない、と思う自分がいた。
しかしそれはいけないと知っている自分がいた。
そして秋夜もそれを知っていた。
「だからさよなら、なんだね」
もうすでに一度終わっている音成らずの恋を、蝶子はまだ忘れていない。
*前 しおり 次#
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