肺を犯す声はやさしくて

「沙紀、外へ出ない?」

 ――もう、最後だから

 雨が止んだ日、六花はそう言って沙紀と外に出た。







 軟禁生活の終わりが、新たな檻への誘いだという事に六花は気づいていたのだろう。そもそも、この天都の邸への軟禁生活は天都王家による『地ならし』という風習によるものである。花嫁は自身の故郷の土を離れ、夫の住む地に足をつけて生きる決意を固めるための期間。
 それも、もう終わる。

「秋夜さまがね、今日は良いよって言ってくださったの」

 外の日差しはまぶしい。
ふたりが今いるのは、国都のはずれ。誰も来ないような廃屋がぽつんとあった。そのぼろぼろの縁側で、足をぷらぷらと揺らしながら六花はそう言った。

 此処は沙紀がひとりになりたいときによく来る場所だ。周囲は木々が茂り、小川のせせらぎと鳥のさえずりだけが聴こえる。
 何かに悩むと、此処に来る。考えて考えて、答えが出た時もあったし、今もまだ答えが出ていない問題もある。
 痛くて、でも懸命に考えて生きている自分が好きになれるこの場所。

 ――まるで、憂鬱の箱庭だ。

 今は足下に滲む露草の青が、ただ瑞々しい。

「もともと、抜け出したりとかはしてたけどな」
「うん、でもあれも秋夜さまの黙認みたいなものだからね。でも、今日はみんなの公認で遊んで来いって。監視役の沙紀がいれば大丈夫だからって」

 周囲の人間は沙紀と六花の関係を疑わない。徹底して、監視役と花姫に徹してきた。だからこそこうして外出が許されるのだろう。六花が静かに訊ねた。

「沙紀。一度だけ、触れてもいい?」

 ――ひかげに、おいで

 差し出した手を頑なに拒んだ彼女。
 花姫として生を受け、秋夜の半身となる事を受け入れ続けてきた六花。ただひたすらに受け身だった彼女がたったひとつ、望んだ事。

「――……いいよ」

 沙紀の頬に、六花の細い指先が触れる。てのひらの冷たさが、どこか哀しかった。

「沙紀、今までありがとう」

 言葉は、二度続く。

「御父様の言葉が辛かった時、そばにいてくれてありがとう」

 汗を流し、みっともなく呻く自分の隣に居てくれた事がとても嬉しかった。「お前が苦しんでいる事が辛い」と祈るように苦悩してくれた。
 私自身が忘れた痛みを、沙紀だけが憶えていてくれた。

「私、沙紀が――」
「もう、いい」

 もう、堪えられなかった。沙紀は六花を引き寄せてきつく抱きしめる。少女は震えていた。

「みなまでいうな」

 言葉にしてしまえば、消えてしまう。しかし音にしなければ、その想いは彼女のなかで生き続けてくれるかもしれない。

「お前の気持ちなんてとっくに知ってるよ」
「……そう、だよね。知ってると思った」

 あたりまえか、と六花は笑う。だって互いに気持ちを隠したことなんて一度もなかったのだから。
 それでも身体が震える。
 いとおしい、いとおしい。
 だからこのひとが、いつまでも怖い。

「ねえ、沙紀。答えて」

 その胸に身体をあずけて、瞳を閉ざす。聞こえるのは、彼の鼓動。

「眠るのが怖いと思った事はある?」
「ないよ」
「他人を、怖いと思ったことは?」
「ないな」
「じゃあ、私を、怖いと思った事は?」

 抱きしめる手に力が込められた。まるで迷子の子どもが寄り添うように、互いに俯いて、彼の囁く声が耳朶に触れた。

「ある。あるに決まってるだろ」

 いつも飄々としている彼が、ほんの少しだけ弱々しく笑った。

「お前が怖い。お前を失うことが怖い。これまで生きてきて、怖いと思うのはそれだけだ。だって理由なんて単純で良いだろう?」

 俺だってお前がいとおしいのだから。

「私は、沙紀が良い。沙紀が生きていればいい。それだけで良い」

 君の生が私の不幸でも構わない、と六花は言う。

「だから――赦してね。私の勝手を」
「俺はもう、赦してきたよ。お前の勝手を」

 ――お前は何が欲しい?
 幼い頃から何度彼女に問うただろう。しかし決まって六花は答えず、曖昧に笑うだけ。お前が望めばなんだって差し出したのに。

 しあわせになれ。
 そう言ってやれたらどんなに良かったかと思う。
 秋夜の隣で、しあわせになれ。
 言葉にするのは難しい。出来ればお前のしあわせは俺の隣であって欲しいから。でも、君が笑っていてくれればいい。
 君の生が俺の不幸でも構わない。

 だから沙紀は問う。

「六花。お前は何が欲しい?」
「わたしは、」
「最後だ。もう、これが最後。だから教えて。俺に」
  
 
 お前が望むものを。
 その言葉に彼女はやはり笑った。哀しげに瞳を歪めて、それでも泣くことはせずに、震える声で告げた。

「沙紀が、良い」

 先程と同じ言葉。しかし違う言葉。六花の両手が沙紀の頬を包んだ。

「沙紀が良い。沙紀だけが欲しい。どうせ贄になっていつか死ぬなら沙紀に――」

 次の句が音にならぬうちに、沙紀は彼女の唇をきつく食んだ。
 重なる唇は生臭い鉄の味。
 噛み切った六花の言の葉と同じ味。

「……言うな」

 唇を離すと、彼女は泣きそうな顔で

「臆病ね」

 今度は彼女から重ねられる唇。熱を孕む身体。ただ、潤み、痛む思いを互いに重ねて、いつの間にか組み敷いた彼女の頬に、触れた。

「ごめんな」

 ああ、そうさ。俺は臆病だ。
 音に成った言葉が他人をどんな風に縛るか、一番よく知っている。

『形見は、ひとつだけ――悲しくて仕方がないのだったら、さらにもうひとつだけ』

 ひとつだけ、頂きなさい。

 沙紀を縛ってきた言葉。そしてこれからも、彼を生かすであろう、恐ろしい言葉。

 六花。俺もお前が良い。お前だけが欲しい。お前がいつか雨の子の餌になるのならば、その前に俺が殺してやりたい。
 お前が望むように。

 どうしようもなく悲しくて、苦しくて。生きて欲しくて。でも自分に殺して欲しいと願う彼女が、いとおしい。
 あまりにいびつな劣情と愛情。
 それを互いに抱いていることが、嬉しくて。
 
 歪んでいる。
 自分も、そして彼女も。
 しかし、それでいい。

 美とは、完璧さのなかにある『破綻』なのだから。



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