故に君は優しさだと笑う

 記憶の片隅に残る母の姿は、いつも怯えていたように思う。たった八歳の子どもの記憶だ。だから他人にどう見えていたかは知らない。しかし秋夜からみた母はごく普通の――いや、少しばかり臆病なひとだった。


「殿下。よろしいですか?」
「あ、ああ。済まない。ぼうっとしていた」

 今日は剣ある水城が定例報告に来ていた。水城の主な仕事は言うまでもなく六花の護衛だが、他にも秋夜は内々に彼に頼み事をしていた。

「殿下の仰るように、幾つかの組織の金の流れを確認してきました。蛇の目の諜報活動にかかった資金から水路の設備まで隅々を」
「ご苦労」
「そのうちの何割かは……昨年より金の動きが頻繁でした。特にこの」

 広げた竹簡のうちのひとつを取り上げ、水城は渋い顔をした。

「憐花の滝周辺と水路の補修にあたった人件費の多さが目に付きました」
「……そうか」

 秋夜は考える。
 近頃、餌人解放運動とやらが目立ち始めている。しかしながら「餌人は可哀そうだ」という善意のもと動く人間がいることはまあ、理解はできる。されど餌人を解放することによって美味い汁を吸える奴らがいることもまた否定はできないのだ。
 敵――と言うべきかは悩むが不穏分子を見つけるには金の動きを見る事が手っ取り早い。
 どんな活動をするにせよ、人を動かすには金がいるからだ。

「内通者がいるとお考えですか?」
「……」

 答えない秋夜に水城は笑う。

「殿下は正直でいらっしゃる」
「そうだろうか」
「ええ、だからこそ」彼は少しだけ哀しげに瞳を細めた。
「私の姫様をお任せできるのですよ」
「そうか」
「はい。例え殿下のお心が他の方にあったとしても、それを無視してでも貴方様は姫様を護ってくださるのでしょう」
「護る、か」
 
 ――なりませんよ、王子。危のうございます。
 在りし日の母はよくそう言って秋夜が新しい事を始めるのを止めた。
 蹴鞠をしようとすれば怪我をすると言い、臣下が贈った子猫を見ては危険だと言い、走ろうとすれば慌てて手を引かれた。とにかく興味を示したあらゆるものに難色を示した。
それは母の愛だった。
 愛おしい子に「さあ、転んでおいで」と言える親はどれくらいいるのだろう。
 痛い思いをさせたくない。怖い思いをさせたくない。自分が転ばぬ先の杖の役を、担ってやりたい。
 そう願うのは、親心だ。

「――俺の母は神経質で『まもる』ことに必死だったな」

 唐突に出された母親の話題に、水城は目を瞬かせた。

「母君が、ですか?」
「心配性だったんだろう。とにかく初めてやることには否定から入るひとだった」

 大丈夫なのですか。危なくないのですか。やめた方がいいのではないですか。思えば母の口癖はそんなことばかりだった。

「窮屈ではありませんでしたか?」
「窮屈ではあったが、最終的には許可をくれたしな。ただ、思った。過干渉の本質は所詮否定だ。相手を護るだの思うだのと言っても、存在の否定に他ならない」
 
 今でも何かを選択するとき、躊躇することがある。頭のなかで母の声が聞こえる気がするのだ。『なりませんよ、危のうごさいます』と。
 六花を護ることも、沙紀の想いも、そして蝶子への気持ちも。
 秋夜は決めていかなければならない。戦わなければならない。今でもほんのわずかに残る、母の声とその想いに。

 選ぶという恐怖。
 始めるという恐怖。
 その両方と。

 護るという言葉は甘美だ。そして約束と言う拘束は時に美しく見える。だからこそ無責任に肯定する事はできない。
 優しい善意が他人を蝕むように、それらは人を囲う檻を成り得るのだから。

「母の記憶は所詮片隅に在るものだ。俺はそれに勝たねばならない」

 優しかった母はいつも全力で彼を守ろうとしてくれた。その気持ちに間違いはない。

「少しだけ、殿下が蝶子様を想う理由がわかる気がします」

 口の端に小さく笑みを浮かべて水城は言った。

「あの方は祈雨師であることを迷いませんから」
「そうかもな。蝶は強い」

 誰が何を言おうと蝶子は祈雨師であり、そのことを幸福だと言う。
 まっすぐな性分に彼は幾度、焦がれたか、知れない。

 幾度焦がれたか、知れないのだ。

*前 しおり 次#
back to top

ALICE+