あたたかい舌がうそぶく

 この『雨期』に降る雨がおかしいことに気がついたのはほんの数日前のことだった。
 秋夜は空を見上げながら、今日も雨を観察している。隣では六花と沙紀が将棋をしている。緑茶と菓子を添えて、午後の小休止だ。

「秋夜。どうした?」

 将棋盤から目を離さぬまま、沙紀が訪ねた。

「ここしばらく空ばっかり見てるよな。あ、王手」
「ま、負けた。くやしい」

 六花ががっくりと項垂れる。秋夜は空を眺めるのをやめて、ふたりが対局していた将棋盤に視線をやった。なかなかいい勝負だったようだ。

「六花。おしかったな」

 そう声をかけると六花は悔しそうに呻いた。

「まだまだです」
「いやー。強くなったなあ。お前」

 沙紀が言う。

「だって他にすることある?ここにいて。お花かお茶か、花札か。将棋と囲碁くらいしかないのよ。暇で」
「俺がいないときは誰とやってんの?」
「秋夜様」
「なるほど。強くなるわけだ。で、秋夜」
「なんだ?」
「空がどうした?」

 一周回って戻ってきた話にどう返事をしたものかと秋夜は思う。しばらく考えてから、単純明快な一言を述べた。

「雨がおかしい」
「雨?変か?」

 沙紀が柳眉を顰めた。

「どれどれ?」

 彼は縁側から外を覗く。蝶子が降らせた雨は今日もよく降っている。雨量は多くもなく少なくもなく、匂いもおかしくない。色だって普通だ。

「考えすぎじゃないのか」
「なら、いいんだが……」

 空から滑り落ちる灰色。それを透かした向こう側に見える、なにか。よくない『予感』だと言えばそれまでであり、違和感と言えばそれである。
 将棋盤の前で悔しさに唸っていた六花がつぶやいた。

「取るに足らないと思ってた駒に、負けちゃうんだもんなあ……」

 その言葉が妙に耳に残る。
 以前に彼が彼女を犯した言葉。
『約束は守ろう。』
 双方が気づかないことを、教えるようにと秋夜はあの言葉に意味を込め、自身の声を六花に与えた。
 六花はあの声と言葉を旨く使っていくであろうし、彼自身もまた彼女が得てきた『情報』を『彼女のなかの自分の声』から読み取るだろう。

 取るに足らない駒。

「慈善事業……?」

 呟いた言葉に沙紀が反応を示した。

「活動家が心配?」

 声を顰めて、問う。将棋盤の前で呻いている六花は気がついていない。

「……とるに足らないと思ってはいるんだが」
「まあなあ。資金の提供元は一応叩いたんだ。あの高尾――俺がこの間捕まえた男の家が主な提供者だ。どんな活動も資金がなければ成り立たない。思想がなんであれ、人と物を動かすには金がいる。けど――俺思うんだ」
「……?」
「あの高尾さ、俺の事『葉良乃沙紀だな』って言ったんだよね」

 懐から取り出した煙管を咥えて、顔をしかめて見せた。

「確かにばれるように尾行したよ?そうすれば高尾は食いついてくるだろうから。でもそのとき俺は活動拠点を葉良乃から別名義の『赤音』宅へと移してた。名前だってもちろん変えて生活してた。仕事だって。調べられたらきちんと『襤褸がでるように』しておいた」

 しかしながら葉良乃沙紀という蛇の目は公的に存在しない。葉良乃の嫡子は王子の臣下にして腹心である。お綺麗な看板を持つ彼の生家は生粋の大貴族である。家業は宮廷化粧師であり『沙紀』は花姫の監視が勅命にして任務である。おめおめと外に顔をさらす立場にもない。
 簡潔に言ってしまえば、どう転んでも沙紀と蛇の目は結びつかないということだ。

「変だなーって思ったから咲月に言ったんだよね。『なんでばれたんだろ』って。そしたら『兄さんの詰めの甘さじゃないですか』って言うから、あの時はそうかなーなんて思っちゃった。高尾はもう、処分したしね」

 肩を竦める沙紀は納得していなさそうだった。

「おかしいな」

 二重の意味を込めて、秋夜は言った。おかしい。高尾が沙紀に気づいていたことも、この男がそれを黙っていたことも。

「お前らしくもない」

 こと諜報活動においては長けている男だ。普段見ていればわかる。普段のこいつの軽薄さは装っているものだ。本質は慎重にしてまた臆病でもある。だからこそ、細やかなところに気が付き、諜報に向いている。

「だから、気になって調べたんだ」
「何を?」
「……今日、報告しようと思ってたんだけど、今言うよ」

 沙紀は気まずそうに瞳を逸らして、告げた。

「蝶子が――赤橋家が『慈善活動』に資金提供している可能性がある」

 落とすようにして漏らされた言葉は、雨音に静かに沈んだ。


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