夏の残り香に乞うた物は

「赤橋は、天都の甘言に落とされたのです。あの『初めからの蛇』に」

 それはいつもの夕餉の席で、母が口癖のように言って聞かせた言葉。
母の話によれば、赤橋の祖先は瀬那の民ではなかったのだという。内乱時代に存在した瀬伊と奈津。そのどちらにも属していなかった。
 赤橋は国を持たず、土地を持たず、家を持たない流浪の民だった。瀬那を含む周辺四国は天候制御の術を持たねば王族にはなれず、天都は元々はその術を持っていなかった。
 赤橋の一族は国から国へと旅をし、雨に恵まれぬ土地へと招かれては祈雨を行っていた。神職として地位も名誉もあった。
 母は言う。

「名誉とは土地ではないのです。国でもない。もちろん、金でもありません。人々から感謝される――私達はただそれだけ。本当にそれだけを誇りとして生きてきました」

 しかし天都王家は違った。内乱を治め、確固たる地位を持つために赤橋の一族を捕えた。

「蝶子、貴女はわかるでしょう。赤橋の悲願が。そして雨の子がどうして『花をくれ』と嘆くのか。どうしてこの国は――」

 雨が降っても止ませる術がないのか。

「お母様……」
「私は貴女に望みを託しています。貴女が駄目ならば、貴女の子に。それが駄目ならその先に。永遠に、永遠に望むでしょう。たとえ死んだとしても、冥府から願うでしょうね。赤橋の一族の、真の自由を」
「私は」
「気を付けなさい、蝶子。天都に。そして花姫に――」

 赤橋の一族は、天都に貶められ辱められたのだと。国々を渡り、雨を施し、大地を潤し人々を生かす術であった祈雨師をこの瀬那の地に『縛り付け』政治の道具にした。

「はい、お母様」

 蝶子は頷く事しかできなかった。
 
 そしてその日は結局、子の刻になってもまだ眠れずに布団で蹲っていた。
 結わえていない髪がどこまでも白い寝床を這う。どこか恐ろしい物語に出て来る幽鬼のようだった。
 普段は簪の飾りにしている白い鈴を、今は強く握りしめる。
 てのひらに覆われた鈴は高く鳴ることはできず、ころりと乾いた音を立てた。

『止めてしまえばいい――』

 祈雨師をやめてしまえ。
 蝶子は自分にそう囁いた秋夜の言葉を――歌を――思い出しては身震いする。
 やめてしまえ。そう、やめてしまえ。お前は楽になれる。お前は幸せになれる。成れる慣れる馴れる生れるナレる――
 秋夜の優しい言葉は熱を帯び、思考を焼き切ろうとしてくる。考えるのをやめてしまいたくなる。彼の『歌』が自分の喉をせり上がって、気が付けば知らぬ声が自分の喉を使って呟き続ける。

「やめて……やめ、やめてしまえ、ば、いい、しまえ、ば、ヤめてシマえば……」

 これは誰の声?
 これは誰の意志?
 これが彼の望んだこと?

「やめてしまえばいい、やめてしまえば、しまえば、し、まえ」

 あまりのおぞましさに胃液が込み上げてくる。げほげほと咳き込んで、涙を流しながら蝶子はきつく鈴を握りしめた。
 幼い頃秋夜は『歌』を制御できずに周囲の人間を傷つけたという。皆彼を恐れた。
 世話役たちも、臣下も、父王も、そして――蝶子も。

「あ、きちゃん」

 座敷牢に入れられた彼を見て、ほっとしてしまったことを思い出す。
 生きるのを諦めたあの人の目と、蝶と呼んでくれた優しい声を恐怖した日々。
 そう、あきちゃんと呼ぶことを止めたのには様々な理由があった。
 所詮、天都と赤橋が相容れぬ道を歩む者であること。
 花姫を后として迎える事を秋夜が拒むことはないということ。
 そして、
 
「あきちゃん。あきちゃん――あきちゃん」

 貴方の声が私を犯していく。殺していく。砕いて、呑み込んで、なにもかも。
 私が貴方をそう呼ばなくなれば、その名は私だけの、私だけの貴方の名前になる。

「あきちゃん――わたしの、」

 わたしの、――

 あきちゃん







「あら、蝶子さま。お久しぶりです」

 寝不足で頭痛がする頭を抱えながら歩いていると、六花に声を掛けられ「一緒に休憩しませんか」と彼女の部屋へ招待された。
 秋夜と六花の祝言を三日後に控えた王家はあわただしい。双方の親類が入れ替わり立ち代りで出入りしているし、隣国の国史――長柄朝希や蛇の目である咲月もあれこれと動き回っている。沙紀は化粧と衣装の関係者との会議で時間を潰され寝る時間もなく目の下に隈をつくってぶつぶついいながら書簡を睨んでいる。
 そんな中、蝶子も祈雨師として婚儀に参加するので色々と段取りを確認しなければならなかった。

「六花様……も、お疲れみたいですね」

 女御が出してくれた煎茶を啜りながら、蝶子は言う。

「そうなんですよ……もう、疲れてくたくたで……」

 眠たそうな顔で金平糖をぽりぽりと食べる姿がどこか栗鼠を想わせて蝶子はくすりと笑う。

「本当に、疲れました。父も煩い。沙紀も煩い。水城も煩い。皆粗相がないようにと小言ばかり言うんです。私だってそれくらいわかってるのに、ですよ」

 頬を膨らませて言う。
 
「あの方たちは真面目ですからねえ」

 蝶子もうんうんと頷く。
 立場から誤解されがちだが、六花と蝶子の仲は決して悪くない。お互い自由になる時間が少ないので会う回数も多くはなかったが、こうして顔を合せればお茶をしたりもするし、愚痴を言ったりもする。

「煩く言わないのは秋夜様だけです」

 桃色の金平糖を指先で弄びながら、秋夜の『半身』である彼女はそう自嘲気味に呟いた。
 六花は蝶子が誰を想っているのか知っている。しかし、彼女はその事に関して蝶子に嫌味を言う事はなかった。

「そう、ですか」

 蝶子もまた、それに気づいていた。六花は秋夜を敬い大切にしている。しかしながらこの少女は心の底の思惑を誰にも悟らせない――いや、匂わせない奇妙な雰囲気があった。
 大事にしている。恋情とは違う思慕を抱いている。それはわかる。
 逆に言えば、それしかわからない。
 
「はあ、疲れる。軟禁生活が終わっても公務で忙しくなるだけでしょうし……頭痛がします。ここ数日体調が悪くて」
「大丈夫ですか?少し横になられては……」
「大丈夫ですよ。愚痴ってごめんなさい」
「いえ、あ、今度甘味屋行きませんか?婚儀が終われば『地ならし』も終わりですし、少し外出に自由がききますよね?」
「行きたいです!あそこの白餡饅頭食べたかったんです」
「この間朝希と行ったんですけど、彼もそれ食べてましたよ。六花様も白餡派なんですねー。私は白玉が好きです。あと御庭が改装されてて綺麗でした」

 蝶子がそう言うと六花はにこりと笑う。
 その笑顔に少しだけ――翳りが見えた。彼女は改めて姿勢を正すと、蝶子の瞳を穏やかに見つめてそして、言った。

「蝶子さま。私はあの人の隣にしかいる事ができません」

 六花は秋夜の半身で、隣に居る事が彼女の務めだ。

「私はあの人の前に出て、盾になることもあの人の後ろにいて剣になることも――できません」
「……」
「でもそれが花姫の務めだと信じています。秋夜様もそれ以上を望まないでしょう」

 す、と伸ばされた白い手のひらが蝶子の頬をひやりと撫でた。思わずびくりと身を竦めると六花は悲しげに微笑む。

「そう、彼は私にそれしか望まない。私はその約束を守るしかない」
「それは……」

 違う、と言いかけた時、何故か雨の香りが蝶子の鼻腔をくすぐった。今日は雨は降っていない。なのに、懐かしい雨音と、どこかで聴いたような痛々しい程の優しい声が脳裏で鮮やかに甦る。やがてそれは身体中をせり上がり、行き場のない熱となって彼女の心を焼いた。

『やめてしまえばいい――』

 彼がそう言った日の雨と草の匂い。
 悲しそうな彼の瞳。
 あんなにも願った、秋夜からの言葉。
 それに応えなかった、自分の、姿。

 何故今、この事を思い出すのだろう。ただの、言葉ひとつで、なにもかも。

なにもかもを、痛いほどに。

「ねえ、蝶子さま――」

 六花の瞳がどこか妖しく光を帯びていた。
 蝶子はその瞳から目を背ける事ができずにいる。熱を帯びる身体はすくんで動かない。ただ首にそえられた白い手の感触だけが、氷のように冷たく彼女を刺した。

 花姫の唇が弧を描く。蝶子は唐突に母の言葉を思い出した。

『気を付けなさい、蝶子。天都に。そして花姫に――』

「私のお願いを、きいて下さらない?」

 ――きっとあの女もまた、蛇の血を分けた恐ろしい人間なのだから。



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