秋の夜に知った死の味は

 頬に触れている手の冷たさに息をのむ。
 細められた瞳の、艶然とした妖しさに『喰われ』そうになる。
 ここで抗えば良くない事になる、そう思った。従え、聞け、応えよ、彼女の声に。その言葉に。本能はそう叫ぶのに対し、蝶子は心に引っかかっていたあることを口にした。

「私も――貴女に訊いてみたい事がありました」

 声は驚くほど掠れていたが、構わない。
 蝶子の意外なその言葉に六花は興味を示し、少しだけきょとんとした後、またあの艶を含んだ瞳で笑ってみせた。

「訊きたいこと?」
「ええ。それに答えて下さるなら私も――貴女のお願いをききましょう」
「ふ、ふふふ……あははははっ!」

 今度こそ、六花は大笑いをした。苦しそうに腹を抱えて笑うその様にはもはやあの怪しげな雰囲気は鳴りを潜めている。

「あーあー……敵わない。本当に敵わないなあ」

 六花は目元の涙を指先で拭いながら言った。
 あの空気とあの言葉で、こんな返答を返してくる。そう、確かに彼女は祈雨師だ。
 本能とは別に、感じる器官を持っている。
 思考力が本能に付随していない。
『考える人』ほど素晴らしく、そして厄介な存在はいない。

「いいわ。あなたには負けた。何を訊きたいんです?」

 六花がそう問うと、蝶子は真剣な眼差しで言う。

「貴女と、沙紀ちゃんの関係を」
「私と沙紀?もう散々訊いてると思うんですけど」
「幼馴染。そして監視役、ですよね。でも違うんです。私が訊きたいのは――貴女と沙紀ちゃんがどういう恋人同士であったのか、ということです」
「……気づいていたんですか」

 まあ、むりもないと思った。表面に出しはしなかったが隠しもしなかった。
 たいていの人は、ふたりの仲が良い理由を幼馴染だからと結論付けて納得する。

「私達はいつも一緒だった。でもそれは自然なこと。だから私達を恋人だと言う人はごくまれでした」

 どこの国にもあるように、瀬那にもある種の派閥が存在する。それは秋夜達が気にしているような餌人を解放するための活動家たち――いわゆる『花派』と呼ばれる者たちと祈雨師を絶対視し、花姫に頼らずとも止雨は行え、またかつ餌人達は『剣』含む庇護において国の足枷でしかないと考える『雨派』。花姫は『雨派』からすれば邪魔者の象徴だ。
 なんども危険な目にあってきたし、死にそうな思いをした。
 水城はもちろんだが――水城よりもさらに近しい存在の沙紀は、その命の危険から彼女を護り、庇護してきた兄のような存在だった。
 そういう背景を知れば、彼女たちの仲が良いのも当たり前だと皆思うのだ。

「でも、恋人――っていうのも変でしょう。私達のそれは、単純で。だけどとても歪んでいるものですから」
「歪み……ですか」
「そう、歪み」

 六花の指先が、蝶子の髪の鈴に触れた。

「この鈴は、秋夜さまが贈ったものですね。とても可愛らしい。そしてとても――美しいです」

 伏せた瞳が悲しそうに翳る。なぜ六花がそんな顔をするのか蝶子にはわからなかった。

「秋夜と結婚するのは、お嫌ですか?」

 単純に考えればそうだと思った。好いたひとがいて、他の男の元に嫁ぐ。それは悲恋ではないだろうか。

「いいえ。――いいえ。嫌だと思ったことは、不思議と一度もないんですよ、蝶子さま」

 ほんの少しだけ笑みを浮かべて、六花はぽつりぽつりと話し出す。

「私は、秋夜さまとの結婚を待ちわびていました。私は花。私は餌。私はあの方の装飾品。その為に生を受け、その為に育てられてきました。秋夜さまは私のすべて。私の人生。私を――彩咲六花を形づけてきた、大切な方」
「では、」
「でもね、蝶子さま。それが恋情であるかと問われれば答えはいいえです。答えはいいえですが、ある種の思慕には近いんですよ。ややこしい事に、ね」

 生まれた時から決まっている事。
 瞳が誰かを映すように、口がものを食すように、手が誰かに触れて、耳が音を聴くのと同じように、六花にとっては秋夜も同じだった。

 六花はそっと蝶子の耳元に唇を寄せた。

「あの方は――とても美しい。そしてあなたもとても、とても美しいわ」

 恍惚とした、艶のある声がそう囁く。

「それに比べて私と沙紀は惨めで、汚れてる。そんな言葉がふさわしい関係でした」

 そこで六花は自分の幼少時代を語る。母を早くに亡くしたこと。父に母親の影を求められ、しょっちゅう体調を崩したこと。それを沙紀がそばで見ていたこと。
 そこまで語るのを聞いて、蝶子はとても大きな勘違いをしていた。

(この方は……普段、作っているんだ)

 にこにこしていて、横着で、ちょっとわがままな愛らしい女性。
 求められる像をそのままに演じているだけで、本質はもっと違う。
 幼少期を語る口ぶりは淡々としていて、それでいて泣く事など忘れてきたかのように乾いている。
 将来は餌として死ぬ事を望む。父には『誰か』を望まれる。自分皆無な箱庭で、えづき、のたうち回り、呪いのような出来事すべてを五臓六腑で砕き消化した。
 比喩であり、比喩でない事実。
 誰にも言わず、自己解決という術しかない自分。

「父といるとね、綺麗な身体のまま、精神だけ他人に犯されている気分でした。ちぐはぐな、均衡のとれない状態は苦痛だったし、どうせならすべて汚れてしまえ、そうすればきっと楽になれる。いつ底に辿り着くのかと怯えているより、自ら最底辺の『底』に堕ちてしまおう。沙紀はそれを許してくれたたった一人の人でした」

 思い出すのは初めてあの人に抱かれた日のこと。痛々しくて、惨めで、汚らしい。無様な負け犬に相応しい、行為だと思った。どこまでもどこまでも底に堕としてくれるのはあの人だけ。一緒に堕ちてくれるのはあの人だけ。
 幸せになれと言ってくれない、沙紀がただ好きだった。だってあの人も私も幸福など望んでいなかったから。

「でも、私や沙紀と違って秋夜さまはそこまで穢れも堕ちもしないでしょう。あの方は私の出来なかった生き方をしてくれるはず。だから私にとって天都秋夜は希望という星です」

 人を天秤にかけ、多数を選び少数を殺す。そうした道に生きているのが瀬那の王への道だとしても彼はそれを悔いたりもしないだろう。
 底に堕ちることなど選びもしない。血にまみれた道を歩もうとも後悔などしない。ただ前だけを見て――きっとその先には蝶子がいる。彼は蝶子の幸福を祈るだろう。

 だから――

「蝶子さま。私のお願いを――きいてくださいますか?」

 蝶子が応える前に、ふらりと眩暈がした。

「え……?」

 意識が遠のく。
 そして彼女の声とともに香る、また雨の匂い。秋夜が哀しそうに『さよならだ』と告げたあの日のなにもかもが甦る。

 六花は蝶子の左耳を塞ぎ、再び右耳に唇を寄せて、囁く。
 
「あなたは『  』を殺して、ね――?」

 なぜか、六花の声が秋夜の声に混じり合い重なって聞こえる。

『蝶――殺せ』
『お前の――を殺せ』

 幻聴のはずなのに、彼がまるでこの場にいるかのように奇妙な現実感を伴って蝶子の脳に、臓腑に、すべてに沁みこんでくる。
 不思議な感情が芽生えてくる。聞かなければ。この言葉を。理解しなければこの言葉を。そうして私は――それを行わなければ。


 そしてその三日後。秋夜と六花の婚儀を見届けた蝶子は忽然と姿を消した。


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