音にひそむ優しさに怯え

「たくさん形見を頂いたのね」

 広げられた遺品のなかに佇む子ども。
 彼は何一つ手に取る事ができずに茫然としている。
 背後で母が少しだけ哀しそうに笑う気配がした。そっと肩に手を置いてくれる。慰めてくれているのだと思うと喉がぐっと詰まって熱くなった。母の着物から香る伽羅と、新しく敷き詰められた青い藺草の香りと相まって嗅覚と痛覚を刺激した。
 
「――っ」

 でも泣けない。こんなにこんなに悲しいのに、泣けない。
 子どもは固く拳を握りしめて涙の滲まない瞳を歪めてみせた。

「母さん」

 形見は――と母は言葉を漏らした。

「ひとつだけ、頂きなさい。でももし――もし貴方がどうしても悲しくて仕方がないのだったら、さらにもうひとつだけ、頂きなさい」

 そう言われた時、初めて、初めて涙がこぼれた。





「次の雨降ろしが決まったって?」

 刷毛にのせた絶妙な色合いの紅を蝶子の唇にそっと滑らせて沙紀は言う。

「ええ二十日後に」

 蝶子がほっとしたように笑う。
 本職として、葉良乃沙紀は化粧師をしている。もっぱら花姫である六花の監視を外すことができないため、客となる相手は国都の中心部にいる人間に限られる。そう、主に祈雨師、蝶子である。
 祈雨師が公の場に姿を現すとき、彼女に化粧を施すのも彼の仕事のうちのひとつだった。雨を降らす時必然的に濡れる事になるため水に溶けない化粧を施す。この技術は瀬那の化粧師が顔料などの原料やその調合を秘匿としているため、他国に高く売れる。
 水に濡れても美しくいたいと考える女はどこの国でも多いようだ。
 今日は雨降ろしの祭に施す化粧についての打合せだった。

「……よし、できあがり」

 口の端まで丁寧に紅を塗り終えると蝶子は控え目に口を開いた。

「雨の子が見つかって良かったです。今回も無事雨が降りますね」
「そう。最近暑いからな。雨はとびっきり冷たいやつを頼むよ」

 沙紀がそんな風に言うので、蝶子は思わず笑った。

「雨にそんな注文をつけるのは、沙紀ちゃん、貴方くらいですよ」
「夏は涼しい方がいいだろー」
「ふふ。そうですね。頑張ります」
「化粧の仕上がりはこんな感じで平気?」
「はい。あ、でも出来れば目元をもう少しだけ濃くして貰ってもいいですか?母が遠目でも目立つようにと……そう言うので」
「了解。静音様がそう仰るなら従わなきゃな」
「すみません……」
「いいよ。お安い御用だ」

 爪紅用の針と、刷毛。白粉。紅。蝶子では名もわからぬような様々な道具を沙紀はひとつひとつ丁寧に拭い化粧箱に仕舞う。
 
「髪は結い上げような。蝶子は髪が多いから見栄えが良い」

 彼女の緩く波打つ黒髪に丁寧に櫛を通しながら、沙紀はてきぱきと手を休めずに続けた。

「蝶子」
「はい」
「あんまり無理するなよ」
「沙紀ちゃんも秋夜と同じことを言うんですね」

 どこかひんやりとした声音に、思わず沙紀は手を止める。向かいに置かれた鏡越しに、彼女と視線が合う。
 少女の眼は湖水のようだった。揺らぎがない。しかしそれと同時にどこかに暖かさを落としてきてしまったかのようだ。
 しかしながら人々はそんな彼女を見て言うのだ。『蝶子様は優しくて穏やかでいらっしゃる』と。
 彼等の言葉に間違いはなくて、確かに蝶子は優しく大人しい。しかし沙紀は思うのだ。この少女は本心から泣いたり笑ったりしているのだろうか、と。

「気に障ったなら、ごめんな」
「――いいえ」

 ゆるゆると首を振る様に、怒りや苛立ちは垣間見えない。

「ありがとう、ございます」

 やはり彼女は笑った。

「――……似てるね」

 どこか表情が乏しい自分の主と、いつも微笑みを絶やさない目前の少女を重ねてついそんな言葉が零れた。蝶子には聞こえない位、小さな小さな呟きではあったが。
 確かに彼はそう感じたのだ。






 いつも蝶子と接して思う事があった。
 夜、自室で仕事の資料をまとめ終え、ひんやりと冷たい酒をのんびりと呷りながら沙紀は昼間の出来事をぼんやりと思い起こしていた。

『さらにもうひとつだけ、頂きなさい』

 あの時母がそう言ってくれて沙紀は初めて泣けた。縁もゆかりもありすぎる人の葬儀だったのにそれまでは泣けもしなかった。
 遺品に囲まれて茫然とする幼い子にただそうとだけ告げた、母の、言葉の、威力。

 固まったものを溶かして、動かして、形を成してしまう音の羅列はあまりに生々しくて。芯から冷えた躰にどろりとあたたかいものを流し込むようで。
 大仰に言えばあの時の母の言葉がなかったら、沙紀は死んでいたかもしれない。そう思うとぶるりと身体が震える。

 ならば。
 ならば もし、もしあの常に笑うしか能のない娘の本当の感情は、どんな言葉なら動くのだろうか。
 それが動くといったいどうなるのだろう?

 そうは思っても実行には移さない。そこは沙紀の領分ではないし、弁えている。

「泣けなくても、笑えなくても、それで良いなら、善いんだろうな」

 昼間と同じように小さくつぶやく。
 彼は酒に強くない。酔いがまわり始めてしまう前に着替えを済ませてしまおうと、項で結わえた髪を解く。

「秋夜と同じことを言う、か」

 鏡を見ればそこには葬式の日に見送った、かの女の姿とよく似た自分が居た。 



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