鏡合わせの痛みは知らず
八つの時、蝶子は母から祈雨師の座を引き継いだ。
はじめて降らせた細い雨は、冷たく蝶子の頬を撫でていく。
「みつけたよ……」
見つけた。もういいかい、と問う声を。まだだよ、と責める声の主を。
化粧師が絢爛に施してくれた化粧と装束を纏い、蝶子は茫然と灰色の天幕に覆われた世界を眺めた。母が雨を降らせている時は、なんて綺麗な風景なんだと感動した。
しかし今、自分が雨を降らせて、ようやく気付く。
「嗚呼」
嗚呼、こんなにも。
「いたいものなんだ」
装束の袖口の合間から覗く白い手首に、つう、と赤が滴る。
雨の子は迷子なのに、よっぽど『此処』に戻ってきたくないのだろう。
彼女は雨を降らせる度に、身体の所々に傷を負うようになった。それは何代もの祈雨師が背負ってきた『雨傷』と呼ばれる痛みと傷だ。
同じように雨乞いの度に傷を負ってきた母は、蝶子に告げた。
「誇りなさい、その傷を」
母はそうとだけ、いった。
*
それは珍しく室で二人きりになる機会があった時の話だ。
「あきちゃん」
声に出してから、蝶子は明らかにしまったという顔をして口を手で押さえた。
「ごめんなさい」
「いや、別に良い」
恥ずかしそうに俯く彼女に秋夜は首を振った。
それは幼い頃の愛称だ。昔風、蝶子は秋夜の事をそんな風に呼んでいた。いつからかその愛称は使われる事はなくなってしまったけれども。
「少し懐かしい」
「貴方の顔を見てると幼いときの事を思い出して……時々、まだ癖がでてしまいます」
蝶子はほんの少しだけ笑った。
「あの頃はまだ母上もいたな」
「はい。和花様にもよく遊んで頂きました」
「亡くなってもう十年か。早いものだ」
「そうですね、本当に」
「十年か……」
そう言って彼は窓の外を見やる。陽は高く、空の色は水を注いだように薄く白い。木々の影がいやに地面にくっきりと浮かんでいる。彼の視線の向こうには餌人の姫が幽閉されている『離れ』があった。
(彩咲六花、さま)
この十年で何があった?
そう考えるだけで蝶子は途方もない気分になる。なにもかもが変わり、なにもかもが変わらない。
秋夜の身長は蝶子をあっさりと超した。しかし祈雨師の地位は秋夜の地位を追い越しはしない。その変わり、下にもならない。
そもそも天都と赤橋を同列に語ろうというのが無理な話だ。
「秋夜」
「……ん」
「六花様の処遇はまだ変わりませんか?」
「変わらない。言ってしまえば俺の一存でどうにかなる話でもない」
「あの方を雨が止まぬ際の贄に……とお考えですか。和花様のように」
「母上のように、か……」
秋夜は瞳を伏せてどこか哀しげに笑った。彼の母もまた天都の男に嫁いだ花姫だった。
天都と彩咲は血の通った親類である。近親とは呼べないものの――やはり血が濃いという事はどこかしらに欠陥がでやすいものだと話をきく。秋夜の場合は髪色や瞳の色に影響がでたようだった。色が薄いのはそのせいだろうと言われてきた。
「彩咲の女がなぜ、天都の男に嫁ぐか知っているか?」
「それは、」
「伴侶になるという事は、自身の半身になるということだ」
離れに向ける彼の視線はどこか優しい。
「半身だからこそ、亡くせば痛む。身を殺がれてしまうのと同じ事だ。言ってしまえばいなくなっても問題がない存在を『雨の子』に与えたとて、それこそ意味のない話だ。あれは――」
あれは、と秋夜は六花をそう呼んだ。
「あれは、俺の為だけに生きられる事を強いられた女だ。だから俺もそれに報いたい」
「そう……」
誠実な言葉だ、と蝶子は思った。
「そうだね、あきちゃんは」
(そう言うよね)
誠実なだけでなにも解決していない無責任な言葉だ。だからこそ彼に嘘はない。痛くて痛くて堪らないほどに、彼の言葉は真実だ。
「私、少し風にあたってきます」
「ああ」
また余計な事を言ってしまう前に、蝶子は室を出た。
「駄目。余計な事を考えたら、だめ」
必ず引き剥がされてしまう半身を、必死に守ろうとする彼を私が守るのだ。肉を引き裂かれるような痛みを彼に味あわなくていいように。
花姫が彼の隣でずっと微笑んでいられるように。
「――『あれ』か」
呼称は時として特別な意味を持つ。
そして蝶子が呼ぶ『あきちゃん』と秋夜が呼ぶ『あれ』はたぶん、同じものだ。
嗚呼、それでも構わない。
否、構うまい。
私は、彼を、彼とその半身を守る盾であろう。
天の水門を守る鍵として、閂として、その役目を果たそう。
私自身の身が殺がれようが傷を負おうが構わない。
「私が――」
――そう、在らねば。
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