残響する生音の末路さえ

 
 かえらずのなつ。
 
 あなたが望む『なつ』は帰ってこない。
 金魚鉢のさかなは透明な檻に気づかない。
 忘れてしまえば楽だ。
 傷ついたままなのは楽だ。
 そして楽なままでいる事は、







 いつものように縁側に腰掛けて彩咲六花は空を眺める。
 さんさんと輝く太陽とその日差しにやかれた青い草の香り。訊いたところによると、もうすぐ蝶子による雨乞いの儀があるそうで、この暑さも彼女の雨が降れば少しはましになるのではないかと思えた。

「暑い」

 全てが揃っているというのは幸福な事だと六花は思う。この天都の離れで幽閉されて五年。彼女はその身の上を不幸だと感じたことはあまりない。
 此処に居れば何もかもが揃う。自分の故郷の――餌人の民たちの安全。幸先が良さそうな国の后という座。美しい着物。上質な化粧品。

 祈雨師が雨を降らせ、そしてその雨が安全に止む限り――六花の身の回りはなにもかもが保障されたままだ。

 何かを欲しいと思った事はなかった。初めからすべてが揃ってしまっているから。

「六花」

 襖越しに声が掛かる。それだけで彼女には誰かすぐにわかった。

「秋夜さま」
「入るぞ」

 室に入ってきた彼は縁側に座っている六花を見て目を丸くした。

「お前……暑くはないのか」
「暑いですよ」
「そうか」 
 
 そう言って秋夜は六花の隣へと腰掛ける。上座ではなく、隣に。
 彼はいつでもそうだ。
 こんなに日差しがきつくても、六花がそこにいると決めたのならば秋夜も隣にいようとする。

「冷たいものでも持ってこさせるか」
「いいえ、大丈夫です」
「不便をさせているな」

 六花は黙ってかぶりを振った。

「今日は陽がきつい」

 眩しそうに手のひらで日差しを遮りながら、秋夜は瞳を細めた。

「ええ」

 彼はどんなに暑かろうが寒かろうが、私の隣にいてくれることを選ぶんだろう。
 それは秋夜なりの優しさで厳しさでもあった。

「秋夜さま。これからも私の隣にいてくださいますか?」
「……約束したからな」

 ぽんぽんと頭を撫でられる。

「ええ。約束ですよ。私もあなたの隣にいます。だからあなたも隣にいてください。それで互いの大事なものを――」

『大事なもの』そう言うときの自分の呼吸がやけに大きく感じられた。


「――あなたの大事なひとを、私が守れるなら。私の大事なひとを、あなたなら守れるなら。どうかこのまま隣で」
「互いに隣にしか居場所がないのは寂しくないか?」
「あなたは寂しいの?」
「いや」
「でしょう。私とあなたは似ているもの」

 嗚呼、暑い。

 それでも其処をどかないのは、ただ怠惰なだけだ。
 いつも自分は受動的だ。与えられるままに、望まれるがままに存在している。悲観すらしていない。でも出来る事も沢山ある。

「あと少ししたら、沙紀が来る。相手をしてもらうといい」
「はい」

 頭に置かれていた大きな手のひらがすっと滑り彼女の瞳を覆う。
 明かりを遮られて、闇のなかに滲んだ残光が目に痛かった。

 耳もとにひっそりと音が滑り落ちた。
  
「――約束は守ろう」

 ぞわりと肌が粟立った。
 それはやわらかく深い水に背を抱き締められているような声音だった。
 生きているが故に誰もが負う、目にも留まらぬ小さな傷に染み込む、甘い水。

 これは誓約なのだと彼女は悟る。

「――……そう」

 音は血に混ざり、皮下を侵し、どろり、と肉と魂を蝕んでいく。

 自身を蹂躙しようとするものすべてを彼女は抵抗なく受け入れた。

「また来る」

 視界を覆っていたてのひらが取り払われて、秋夜はあっさりと彼女の『隣』から立ち去っていく。

「……」

 ぱたん、と襖が閉まる音がした。
 
「馬鹿なひと」

 暑い夏も。
 寒い冬も。
 雨が降ろうと槍が降ろうと、彼は隣にいるだろう。

 それは、

(私の為じゃなく)

 きっと、

(私に)

 過酷な道を強いる事を彼自身が理解しているから。

「暑いよ」

 肌に汗が滲んで不快だ。
 
「六花ー。悪い、遅くなった」

 しばらくして沙紀がやってきた。相変わらず派手な着流しだ。暑いのが苦手な彼は扇子を片手にぱたぱたと仰いでいる。やはり縁側に座っている六花を見て、驚いた顔をした。

「お前、暑くないの?」
「暑いに決まってるでしょ」

 本日二回目の質問に六花は思わず苦笑した。
 
「馬鹿だな。ほら、」

 沙紀は手のひらを差し出して、笑う。

「――おいで」

 生まれた時からすべてが揃っていた。
 なにもかもが与えられていた。

 それなのに、まだ手を伸ばそうとする自分はなんて強欲なんだろう。

「っ」 

 手を、伸ばしてはいけない。 

「馬鹿だな」

 それがどんなに愚かでも。天都秋夜が広げてくれた『沙紀』という籠は最大の温情だ。
 沙紀は秋夜に六花を時折外に連れ出すように頼んでいる。
 わがままを言えるように、してくれている。

 あくまで、天都の檻を出ない範囲内であっても。

 秋夜の最大限の優しさを、無下にはできなかった。

「――ひかげにおいで」

 彼の言葉はまあるく、やさしい。
 この手を取れば自分は居心地の良い場所にいれる。寒い冬でも、暑い夏でも、嗚呼、きっと幸せなんだろう。

 其処に居なくていいよと、いってくれる。それは幸福だ。

 しかし――

「ごめんなさい」

 六花は彼の手を取らなかった。
 
 それでも彼女は沙紀の、その居心地の良い、冷えた手のぬくもりを、とても愛していた。とてもとても、愛していたのだ。
 

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