水路を満たす天泣のおり
ここではないどこかで、梅雨と呼ばれる季節があるのだと、そう聞いた。
緑の葉を透かしてしまいそうなほど、ただ燦々と明るく強い日差しは地面に木々の影をくっきりと写しだしている。
馬や馬車が通りやすいようにと丁寧に舗装された国都の道を歩くたび、下駄がこつこつと小気味よい音を立てた。
商品の仕入れに忙しい商人。井戸に水を汲みにいく娘。手を繋いで歩く親子。
ざわざわと色んな音の混じる此処は、沢山の平穏が垣間見えるようで居心地が良い。
「ねえ、蝶子。そのどこかの国みたいに、雨期があったら楽だと思わない?」
隣を歩く異国の青年は、瀬那の雨の在り方を知りながら、そして蝶子の在り方を知りながら、躊躇うことなく問うてきた。
「楽には楽かもしれませんが……。朝希は雨が自然に降るものだと思うんですか?」
「僕にも想像できないけど」
「ですよねえ……」
雨期。雨の降る、季節。正直に言ってしまえばそんなものは眉唾だと思った。
瀬那の国にも雨期はある。
しかしそれは蝶子が公の場で舞を披露しながら行う『雨乞いの儀』ではなく、簡易に、そして定期的に降らせる『略式の雨(う)』というものだった。
だから蝶子は水無月と呼ばれるこの時期が好きではない。何回も何回も雨の子を捜しながら降らせる雨は、大層疲れるものだからだ。
「あ、あそこの甘味屋よりたい」
蝶子が思考を巡らせている間に、話題を振ってきた本人はあっさりと興味を他に移してしまったようだ。
「いいですよ、行きましょうか」
「佐斐の国でも評判だよ。うちの姫様が食べたいって騒いでる」
長柄朝希は隣国である佐斐の宰相の息子である。歳は確か十六だったはずだ。姫君の側近で、国史として瀬那に訪れては色んな小間物や甘味をねだられては土産として持って帰る。そこに彼らしいお人よしっぷりが垣間見えてかわいらしいと思う。
蝶子とは立場上交友も深く、長い付き合いの友人のような存在だった。
「あらァ、いらっしゃい。蝶子様じゃないですか。お元気そうで」
「ありがとう。今日も賑わってますね」
甘味屋の女将が愛想良く声をかけてくる。人気の甘味屋なだけあって、座敷は若い娘たちがお喋りに花を咲かせている。
「お連れの殿方は?」
「佐斐からいらしたんですよ」
「嬉しいねえ。わざわざ。あ、そうだ。今日はうちの庭の改装が終わったばかりでね。ほら、うちは狭いでしょう?だから庭にも少し席をおかせて貰えるように手入れをしたんですよ。明日からそちらにもお客さんを通そうと思ってたんですけど、どうです?蝶子様なら特別に」
「いいんですか?」
「もちろんですよ。ただ少し道具が散らかっていても許してくださいな」
「ありがとう」
店頭で注文を済ませると、女将は庭へと案内してくれた。
「すぐもって来させますからね。どうぞ楽しんでくださいまし」
庭は美しく改装されていた。
椅子や机には艶出しが塗り込められている。藺草を編んだ座布団は丁度良い座り心地だ。丁寧に掃除もしてあり、隅に少しだけ使いかけの道具が出してあるだけだった。
「はー……特別待遇だねー」
「少し得した気分ですね」
明日からは此処にも沢山の客が入るのだろう。此処で静かに茶を飲めるのは恐らく今日だけだ。
ほどなくして甘味が運ばれてきた。
蝶子は餡のかかった白玉。朝希は白餡の饅頭である。
「織香様は……お元気ですか」
蝶子は話の切り出しを、少しだけ慎重にしてその名を口にした。
「うん。元気」
「御身体は……」
「平気だよ。姫様は強いお人だから。毒雨なんかに負けないさ。蝶子の雨を貰えば今回だって、乗り越えられるはず」
佐斐は、毒の雨が降る。
黒くやや粘度のあるその雨は田畑にも、そして人体にも有害だ。
佐斐の姫君はそれを舞いで封じるのだ。
「私達は、いつか天候について悩む必要はなくなるのでしょうか」
「……どう、かな」
朝希は半分に割った饅頭を食べようとはせず、少しばかり俯いた。
「さっき雨期があればいいって言ったけど、そうしたら姫様も、蝶子も今の立場を失うんだよね」
「……」
「天候制御の術を以てして、国は成り立つ。君たち瀬那は雨を降らし、僕たち佐斐は雨を止ませる。北の莉玲(りれい)は雪を、そして西の深黄はひどすぎる陽射しを。そうして何千年も生活してきたんだ」
天候制御の術を持った人間、あるいはその術を持つ一族を管轄下に置く事ができた者が王族である。瀬那は天都が赤橋と共に歩み、佐斐は姫君が力を制御下に置いている。
瀬那と佐斐がやや依存気味な同盟を結ばざるを得なかったのは、その天候制御の相性が互いに良かったからに他ならない。
瀬那は降った雨を確実に止ませたい。
佐斐は毒雨の変わりに良い雨を降らせたい。
雨は両国にとって貿易の品に等しかった。
「姫様も、蝶子も、重すぎるだろう。荷が」
蝶子はふるふると首を振った。
ひゅんと風が吹いて髪に飾った白い鈴がりんと鳴った。
見上げる空。明るい太陽。透けてしまいそうな、薄い葉のみどり。
思い出す事がある。
思い出すひとがいる。
(「――美しいな」)
深い秋色をした、私の幼馴染。
空にあるものすべてが、蝶子の敵だった。太陽は雨を嫌う。雲は言う事を聞かぬ。風は雲を浚おうとする。
(「俺は蝶子の雨がいっとう好きだ」)
降らせた雨が蝶子を叩きつけても、安心して見上げる事ができるのは雨空だけだった。
雨が降る。
あの人が珍しく笑う。
髪に、鈴に触れては、良くやったと褒めてくれる。
私の雨を、好きだと言ってくれる。
「私は、雨が好きです」
朝希が一瞬きょとんとしたあと、蝶子らしい、と呟いた。
隣国の姫君は雨が嫌いだろうか。雨を恨んでいるだろうか。その身を蝕む毒雨を。
気にはなるが、他人が雨をどう思おうと蝶子には関係ない話だ。
私は祈雨師として生まれ、祈雨師として此処に在る。
もしあの人が雨を好きだと言ってくれなくても、それはきっと何も変わらない。
とてつもない幸福が其処にはあった。躰の、どこか乾いた水路の端々までゆっくりと水が沁み、満ちるような。潤み、澄み、それでいて生々しい程の現実感。
それは、空の器に注がれる水のように彼女を生かすのだから。
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