花の水禍は些末なことと

 あの日、六花の目の前には暗闇がいた。

 くらやみ、と呼ばれる単純で恐ろしい生き物だった。

 何の感情も読み取れない眼窩。ただ喰らう為に存在するような涎の垂れた大きな口。『それ』について幼い六花は何一つ理解できなかった。

 否、ひとつだけ――ただ、自分を喰らおうとしていることは理解できた。
 
 ぬうと伸びた『暗闇』の手がずるりと六花の首を掴む。

「いやぁ!いやっ!父様ぁ!」
「六花!剣たちは何をしているっ!」

 父が口角泡を飛ばして叫ぶ。

「あなたっ!」
「雪乃」

 泣き叫び、助けを求めた父は、いつだって『餌人の長』で『母、雪乃の夫』だった。
 父は母を抱き締め身を挺して守ろうとする。六花が、目の前で喰われそうになっているというのに。

「とう、さ……ま―――!」

 大きく見開かれた目が、より大きく『暗闇』をうつす。
 夜よりくらい、くらやみ。
 そこから悪意を垣間見えた方がどれだけよかった事だろう。

 暗闇はただばっくりと口をあけて、六花を喰らおうとする。

「―――……!!」

 声も出なかった。もう駄目だ、と目をきつく閉ざした時に、

「姫様!」

 広い背が彼女を庇っていた。抜き身の白い刃が月の光を反射してぬらぬらと光る。
 

「みずき……」

 ぴしりとした袴姿にゆらゆらと揺れるくせ毛の髪。身の丈より大きな剣を持った、六花より十ばかり年上の少年。

 ツルギと呼ばれる彼が暗闇をその剣で薙ぎ払った。







「姫様」

 横に倒していた身体をぐいと肩ごとを引っ張られる。その乱暴さに目を開くと、心配そうに瞳を歪めた青年と目があって六花は状況を理解するのに数秒を要した。

「うなされてましたが」
「誰にでもあるでしょう。そんなこと」

 欠伸を噛み殺して、身を起こす。頬が痛かった。撫でると畳の跡がついているのがわかる。

「水城は心配性ね」
「私はツルギですからねえ。姫様のお世話も仕事の内です」

 くすりと笑う青年の名は、冴凪水城。今年二十九になるときいた。長身で、痩躯。少し癖のある猫毛が特徴だ。
 六花や沙紀、蝶子にとっても兄のような存在で、いつも優しく穏やかな男だった。

「今、水城の夢をみてたのよ」
「おや」
「期待してるような甘い夢じゃないんだけど」
「でしょうね」
「水城が、小さい頃助けてくれた時の夢だった」
「あれは……私達『剣』の不始末です」
「それでも助けてくれた」

 まだ六花が餌人の里に住んでいた頃のことだ。あの広くて広くて――かつて戦に負けた民の王家には不相応なくらいの立派な屋敷に。
 多忙な父と、病弱な母。そして六花が珍しく一緒に過ごせる貴重な夜にそれはやってきたのだ。

『いやあああああああああ――――!』

 最初に響いたのは女の声だった。彩咲の邸に仕える女房のものだったのかもしれない。

 餌人は、王家天都に守られている。剣と呼ばれる『暗闇』を祓う者を餌人の里周辺に配置し、いざという時には身を挺してまで彼等を守る。

 剣になるにはどうやら先天的な特質が必要らしい。そして厳しい訓練を乗り越えた者たちは、名に『水』の一字を王より賜るのだ。

 沙紀は花姫の監視を任としているが、それとはまた違い、緊急時に花姫を守るべく、護衛として彼女に付き従うのが水城だった。

 今日は沙紀が急用でいない日だと、六花は思い出す。そうか。それで水城が(監視も兼ねて)交代で来たのだろう。


「ねえ。水城」
「なんですか。姫様」
「あの時」
「はい」
「御父様は御母様を真っ先にお守りになったわ」

 泣き叫ぶ子の手を取る事なく。剣に始末を託し、自らの手で守ろうとしたのは最愛の妻。

「私、絶望すらしなかった。ああやっぱりって思ったのよ」

 今亡き、母。依存心が強く、夫を愛し、母である事よりも女である事が至上の喜びだった。多忙な父が留守にすれば寂しいと泣き、病を拗らせては辛いと泣く。

「きっとね、御母様は夕陽が沈んだだけで死ねてしまうような、弱い人だったもの」
「私もそう思いますよ」

 水城はすっぱりと言い切った。だから、彼は『良い大人』なのだろう。

「でしょう。だから私は――」
 
 私は、泣くものか、と。


 



 父の名は、立花と言った。
 母の名は、雪乃と言った。

 立花の読みを変えると、りっかになると彼は考えた。

 雪乃の異称を考えると、りっかになると彼女は考えた。

 ふたりは娘への名づけに大層、満足したようだ。

(わたしたちはこれでずっと一緒ね、と)

(馬鹿げたくだらない言葉遊びみたいな、幼稚な恋と愛情で) 


 何が私を喰らうと思う?

 六花は時折誰かに訊いてみたくなる。
『暗闇』だろうか。雨の子だろうか。

 父は私の中に母が生きる事を望み、母は私の中に父が生きる事を選んだ。

 初めから、すべて揃っていた。

 だからこそ。


 望む事を放棄したのではない。
 放棄するという選択すらなかっただけだ。

 選択をしなかったのではない。
 選択をしないという選択をしただけだ。

 喰われていいと思って生きてきたわけではない。
 抗う方法など、脳が腐りそうなほど考えた。

 それなのに、

 それなのに、嗚呼。結論はいつも同じ。

(私は、ただ、何もかもに喰われるだけの存在)

 父に。母に。天都に。そして雨の子に。喰散らかされ、冒され、蹂躙され、やがて枯れた花のように捨てられる。

 そう、きっと私はその為だけに存在しているのだ。

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