さよならのはなし
――しろねこ、ね。ハルはほんとうにこの絵本が好きね。
何度も読んでくれとせがむ自分に、母はいつも笑う。母のよく通る声が、物語を紡ぐ。
『しろねこはさびしくてなきました。』
誰も居なくなったお城にひとりでいるのは嫌でした。でもしろねこはずっとずっとそこに居ました。
「なんで、さびしいのにお城にいるの?」
ハルはいつもそう問うた。これだけは今でも理解できない。
「なんでかなあ……。ハルはなんでだと思う?」
母はいつも自分の疑問に答えを与えてくれることはなかった。それはきっと、母なりの優しさでもあったのだろう。意見と経験という価値観を押し付けられることに疲弊していた彼女は、今思えば何かを断言することを過剰に避けていた。
「わからない」
「わからないかあ……」
じゃあ、と母は微笑む。
わかるまで、何度でも読んであげるね。
何度でも。
*
白いカンバスを赤い筆で染める。塗りつぶして、犯して、消して。そうして食い散らかされた自分の残滓を殺していた。母と対面したあの日から、シンはいつも考えることがある。筆を止めることなく、ただそれについてぐるぐると思考を巡らせる。
何度でも。
――ああ、痛い。
母の優しさは痛かった。答えて欲しかった。教えて欲しかった。だって怖い。わからないことは。知らないことは。とてもとても怖いのだ。
『しろねこはいつもひとりでした』
『しろねこを置いて、みんな戦いにでかけてしまったからです』
『王子さまはしろねこにいいました』
『まっていてくれるかい?僕は、またきみと遊びたいんだ。だから、』
シンは手を止める。何故筆を止める?いつものように何もかも排泄してしまえばいいではないか。この馬鹿げた感傷も、くだらない物語も。なのになぜそれができないのだろう。
「『だから、約束だよ』」
王子が猫にのたまった自分勝手なセリフを呟く。
これは悲劇だ。守られない約束の成就を健気に待つ、馬鹿な猫の悲劇のお話。そしてそれを美しいものに昇華させようとする馬鹿げた人間のご都合主義まるだしの話。
「やくそくだよ」
約束はなんて甘美なんだろう。信じることはリスキーで、でもとても優しい。未来を与えるという予告。そして予測。このラインをなぞれば、美しい絵を損なうことなどないのだとそう言われているようで、面白味もなければ自由も無い。その代わり、恐怖もない。
――なかないで、ハル
ママはいつだって、ハルのファンよ。世界で一番の、ハルのファンなんだから!
どんなにヘタクソな絵を持ってきても、母はそういって喜ぶ。描いた本人さえ価値を見出していないどんな些細な絵も、大切に大切に保管して――笑う。
「――ッ」
耐えきれなくなって、瞳を覆う。真っ赤に染まった筆が無機質な音を立てて床に転がる。脳裏に焼き付いているのはあの日溜まりのような笑顔だった。自分が行き着く母の姿はいつもそれだった。
「待ってるよって言ったのは僕なのに」
嗚咽が漏れる。それでも声は殺す。息も潜める。知らないふりをする。いつの間にか覚えた生き方と、母が望み差し出してくれた生き様はあまりにも違った。
しろねこはいいました――
『――わたしがのぞんだことなのです。わたしはまつのがすきだから。だってまっているあいだはたくさんじかんがあるでしょう。そのじかんをつかって、わたしはおうじさまとどうたのしいじかんをすごすのかかんがえるのです』
母さん。僕のなかには既に答えがありました。さびしいのに、なぜしろねこはそこに居続けるのか。待ち続けるのか。でも口に出せませんでした。
もし母さんの描いてる答えと僕のはじき出した答えが違ったらと思うと、さびしくて。
『さびしいけど、さびしくないんです』
時間は無限大でした。ひとの生が有限だとしても、一生をかけて思えばそれは僕の永遠の回答です。
『わたしは王子さまがだいすきですから』
他人と違うのは構わない。でも貴女と違うということは――異なるということは恐怖でした。僕の世界。僕の言葉。僕の色。僕のすべて。
今では少しだけわかる。優しい貴女がどうして僕に結論をゆだねたのか。答えを提示しなかったのか。
――ずっとずっとファンよ
貴女が断言するのは僕への気持ちに対してだけだった。美しい決意だった。優しい言葉だった。そしてそれは偽りではなかったことを僕は知っている。
ねえ、だから僕も大好きだからという単純な理由で愛おしい貴女を待っていたかった。
僕の絵の具に無垢な白はもうないのに。
12.06.25
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