無知の邂逅

 最初に殴られたのはいつだったかな。思いだそうとしても、そもそもいちいち覚えていないのだ。習慣になってしまったものは、逆に覚えているのが難しい。毎日食事をしたことを覚えていてもメニューまで明確に覚えてることはない。たぶん、それと同じ。

「それがおかしいんじゃない」

 アキはシンを引き取ると決めたとき、何度もそう言った。

「殴られて当たり前なの?」
「だって、痛くない」
「嘘つかないで」
「嘘じゃないよ」
「姉さんがそう言えって言うの?」
「ちがう」
「じゃあ、なんで!」
「痛くないんだ」

 そう応えたのを覚えている。でも今は、痛くない?いや、わからないの間違いじゃないのか。解ろうとしなかっただけじゃないのか。

 放課後、机で丁寧に日誌を書くクゥを待ちながらハルはそんなことを考えていた。教室にぴっしりと嵌まった窓からは夕陽が射し込んでいる。椅子の背もたれの部分に肘をついて、ハルはクゥの字を眺める。

 日誌の白いページが夕焼けのおかげで今は綺麗なオレンジ色だ。

「クゥ」
「なあにー」

 むに、とクゥの頬を摘む。

「痛い?」
「痛いよ。なにがしたいの、もうー」
「痛いって、辛い?」
「……ハルくんがそう思うなら」
「……クゥはどんなことが痛いと思うの」
「たっくさんあるよー。ぽっぺたをつねられること。部活でつまらないミスをしたこと。センセーに叱れたこと。ママに『あんたなんて、もう知らない!』って言われること」

 あと、ニンジン嫌いなこととか。最後にそんなふうに言ってえへへと笑う。

「私はハルくんが知らないままでいいと思うならそのままでいいと思う」
「そうかなあ」
「うん。なんで皆の言うようにわざわざイタいこと知らなきゃいけないの?」

 頬を摘んでいた指で、クゥの肌を撫でる。食い込めば痛くて、撫でれば気持ち良い。それだけのことなのだろうか。

「アキが悲しそうにするんだ」
「アキさんが笑えば君は痛くないの?」
「ううん」
「じゃあ、いいよ。知らなくて」

 クゥはハルの頬を同じように摘む。そして切れ長の瞳を細めて笑った。

「知らなくていいよ、君は」
「なんで」
「知るのには時があるから。それにね、」



 君には知らなくていいことがありすぎるんだ、きっとね。


12.12.12

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