ラストソング

 自分なんていなくなればいいと思いながら過ごしてきた時間なんて消えてしまえばいいと思った。貴女が僕に示した感情はなんだろうね?まるで荒削りな愛の歌のようだった。

 捨ててしまいたいと願っていたよ。でも、やっぱりなくしたくないと思うのはどうしてなんだろう。





「ひさしぶり、母さん」
「ハル……?」

 母は大きな瞳をさらに見開いて、そう彼を呼んだ。

 母が生活している閉鎖病棟の一室。そこにはテレビもなければ、音楽を聴ける機器もなかった。私物の持ち込みには個人差があり、医師が許可したものしか病室に持っていくことはできない。携帯電話など、論外だった。

 まるで、静かに死を待つだけのような、その部屋。
 精神を病んだ母は、瞳を細めて、嬉しそうに笑う。

「ハル。ハル、あいたかったわ。ハル」

 何度も何度も名前を呼んで、ハルを抱きしめる母のベッドには『しろねこ』というタイトルの絵本だけが置かれていた。

「かあさん」

 このひとは、ずっと待っていたのだ。僕が来るのを。この絵本を、何度も読みながら。

「かあさん――」

 幼い頃、いつも彼女が読んでくれていた大好きな絵本。

 それは王さまもお姫さまも召使いも居なくなってしまった大きなお城で、たったひとり、誰かが帰ってきてくれるのを待っているしろねこのお話。

「ずっと、あいたかったの、ハル」

 待っていたの?あの猫のように。
 願っていたの?あの猫のように。

「――ムシがいいね」

 あんたのせいでアキはあんなに苦しんだんだ。あんたが僕を産んだせいでばあちゃんだって苦しんだんだ。

「ハル?」

 ああ、あんたなんかにわかるものか。

 華奢な身体。よわいひと。だから僕が守ってやらねばといつも思いながら、殴られた毎日。

「ハル、どうしたの?誰かに意地悪されたの?」

 精神を病んですべて忘れた母。

「僕は、きらいだよ」

 あんたを忘れないために、痛みを無視し続けた僕の気持ちなんてわかるものか。

「母さんなんか、嫌いだ」

 無垢な少女のようなひと。無知な子どものようなひと。
 しかし今の母にハルの言っている言葉の意味などもうわかるはずがなく。

「ハル、わたしの、可愛いハル。泣かないで」

 彼女は壊れたラジオのようにハル、ハル、と名を呼び続ける。

「母さんは勝手だ」

 どんなに嫌ったって、あなたが僕を愛してる事実を認め続けなければならない、僕の苦悩がわかるものか。

 ハル、ハル、ハル、

 名を呼び続ける母。やめてくれ、と叫びたくなって、涙が溢れた。自分のことも名前もどうだって良かった。なのに貴女が呼べばそれらはすべて意味を持ってしまう。
 もうずっと、怖かった。認めるのが。理解するのが。
 かあさんが付けてくれた自分だけの名前。それを呼ばれると胸が締め付けられて、そこに込められた意味をなにもかもを知ってしまう。

 そう。知ってしまう。

「かあさん――」



 僕は貴女が好きだ、という事実を。



12.02.24

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