イデアリズム

 鈍感であれば良かった、と思う事がある。狡猾であるとは繊細であるということだ。そして、狡猾であるのは臆病であるが故だ。物事を捉える感覚の網目が細かければ細かいほど、日常そのものが大きな刺激となり、そしてその『網目』の持ち主を疲弊させる。
 さながら高機能なセンサーだ。それを用いて日常生活を送るとどうなるか、僕は良く知っている。

ああ、いまもそう。ほら、――ぱたり、ぱたり、耳元で、音。

 そして白が赤に染まった。






「……?」

 首を傾げると、ぱたり、また音がして頭からつうっと血が滴った。それは制服のワイシャツに落ちて、赦されない染みを作ってしまった。ずきり、ずきり、痛む。それを自覚して漸く理解する。
 
 ――ああ、これは僕の傷か。


「なに、あんたどうしたの?」

 学校から帰って来たシンの怪我に驚いて、アキはソファから起き上がる。

「喧嘩でもしたの?」
「んー……喧嘩って言わないよ、ああいうのは」

 名前も良く覚えていないクラスメイトに絡まれ、突き飛ばされて机の角で頭をぶつけた。ただそれだけだ。
 態度が気に入らない、とか言ってたっけ。

「僕は、彼になんの興味もないんだけどね」

 中学の鞄を放り投げると、シンはいとおしそうに傷に触れた。怪我をすると、いつも母親のことを思い出す。アキの姉で、シンの母。
 彼女は元気だろうか――

「シン、手当てをしないと」
「えー……」

 嫌そうな顔をする甥に、アキは笑って言った。

「結構出血してるから、熱が出てくるかもしれないわよ。それに、あんた酷い顔してる。寝不足なんでしょう?」
「なんでバレてるのかなー」
「馬鹿ね。それくらいわかるわよ。ほらほら、手当てするから着替えてきなさい」
「はーい」

 まだ小さな、しかし広い背にアキはちいさく呟く。

「わかるわよ、あんたのことくらい」

 シンには聞こえない。小さな小さな呟き。アキは右手で自分の左手首をぎゅっと握った。震える。身体が震える。目を閉じても鮮烈に焼き付いた彼の赤。

「はやく、手当てしなくちゃ、ね……」

 ねえ、シン。そしたら



 大嫌いな昼寝の時間よ。



091028

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