ランドスケープ

 眠りたくてたまらなかった日々を、今でもまだ覚えてる。
 永い眠りを望んだ日々を。






 シンは案の定熱を出して、しぶしぶ眠りについた。彼は、睡眠を好まない。しかし「アキが心配するから」。そんな風に呟いてベッドにもぐりこんだ。シンを――自分がそう呼んでいる甥を見ると、古傷が痛むのを感じた。姉さんにそっくりな、細い猫っ毛。童顔なくせに、口を開けば生意気で、でも可愛い甥っ子。でも、シンは『彼女』とは違う。

「最近は雨の日が多いわね」

 窓の外は、灰色のベールに包まれて鈍く静止画のように現実感が無い。

「……雨は、嫌いだわ」

 雨の日は、古傷に再び痛みを与える。忘れていたものを――忘れようとしていたものを、無理やり思い出させる。
 ぐっすりと眠っているシンの頭を撫でる。アキはこの十五歳離れた甥を、とても愛していた。どんな時も笑顔を絶やさないこの子はアキにとっては朽ちぬ花のようで。
でも、それだけではなくて。
 シンは、笑っていた。怪我をしても、ただ笑っていた。この子はいつだって笑っている。アキと暮らすようになってからは、特に。
 一度電話で話したシンの担任教諭によれば誰とも仲良くしているし、勉強もそれなりの成績だという。なにひとつ問題などないと。
 学校に通える。友達がいる。勉強をする。誰の前でも、幸せそうに微笑む。
 それでも

「あんたは独りがいいの?」

 ずきり、と左手首が痛む。細い手首から覗くのは、白く走った傷跡。アキはぎゅっと瞳を閉ざす。この古傷が痛むと必ず思い出すのは『彼女』のこと。優しい私の姉。優しいシンの母。
 優しかった、ねえさん。

 シンは彼女を想って微笑むのに、あたしは――あたしはまだ笑えない。
 ねえ、シン。時々たまらなく眠たくなるのよ。でもきっとほんとに眠りたくないのはあたしで、あたたかい優しいものを恐怖しているのもあたし。

 ねえ、シン。あたしはまだそんな自分を否定して、



 その否定を否定し続けてる。



09〜

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