優しいヴィーナス

 何が好きだったのか。どこにいなければならなかったのか。どうして泣いていたのか、今ではもう、わからない。
 否定の否定が肯定であるのならば、いったい彼女は何を望んでいたのか。彼女自身が一番その答えを知りたかったのだと今では思う。混乱した自分。それを理解したうえで敢えて考えることを止めなかったのは彼女にとってささやかな抵抗だったのかもしれない。
 胸に囁く、剥がれかけた痛みの断片。それはずきずきと貴女の心を蝕んだんだろうね。

 僕はね、そんな貴女を見てるといつもは平気なはずの痛みに微笑む事ができなくなってしまうんだ。僕は貴女と違って冷静だよ、アキ。だから、その原因がよくわかる。

 これは悲しみだ。アキ、貴女がそんな顔をすると哀しいんだ。悲しくて、とても苦しい。でもね、アキ。僕はこれだけは言いたい。
 貴女は己を二度否定した。それは自身の肯定だよ。だから、三度目はもう、口を開かないで。

 ねえ、アキ。僕は祈るよ。かみさま、もしあなたが存在するのならば、どうか僕とアキを繋ぐ糸を断ち切って下さい。
 僕が振り回す糸を断ち切って、どうか彼女を、自由に。





 リビングから聞こえる声がやけに賑やかで、夜勤明けで夕方まで寝ていたアキは漸く目を覚ました。

「……クゥが来てるのかしらね」

 適当に身なりを整えて、リビングに向かう。そこには案の定、シンとクゥがテレビゲームをして騒いでいた。

「あ、アキ。おはよう」
「おはようございますー。そしてお邪魔してますー。アキさん」

 語尾を伸ばすその独特な話し方をするセーラー服の少女は、シンの彼女なのだと言う。本名はクルミだが、シンとアキは彼女をクゥと呼んでいた。

「おはよう。っても、もう夕方だけどね」

 アキは苦笑して、二人に微笑む。そんなアキにクゥは傍らにあった鞄からごそごそと、綺麗にラッピングされた袋を取り出した。

「お誕生日おめでとうございますー。これ、私とシンくんから」
「29歳だねえアキ」
「あはは、ありがと。あたしも歳とったわよねえ。これ、開けてもいい?」
「もちろんー!むしろ早く開けてください」

 袋を開けると、出てきたのは可愛らしい羊のぬいぐるみだった。良い香りのする、安眠枕らしい。

「あたしには可愛すぎない?これ」
「大丈夫ですよー。これでぐっすり眠って下さいね」
「そうそう、最近アキはちゃんと眠れてないみたいだから」

 パックのオレンジジュースを啜りながら、シンは何気なく呟いた。アキは思わず黙り込む。シンは何も言わなくても、気付いている。あたしが何故、眠れないのか。あたしが何故、自身を否定するのか。あたしが何故、姉さんからシンを引き取ったのか。

「アキさん」

 クゥが瞳を細めて微笑んだ。枕を握りしめる彼女の手に自らの手を重ねて、優しく言う。

「アキさん、最近元気ないですよー……?」
「……大丈夫よ。ありがとう」

 大丈夫でなくとも、アキはそう微笑まなければならない。
 
 ――まだ、眠ってはいけないよ。耳元で、誰かが囁く。
 
 アキ。アキ。まだ引きずってるの?

(ああ……)

 そんなこと、訊かないでよ。

「ふたりとも心配してくれて、ありがとう」

 平気よ。平気。ただ、あたしは笑えてるのか時々不安になるのよ。歳をとると、



 忘れたふりが、上手くなるはずなのに。



091213

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