なくした右手

 かけがえのないひとりになりたくて、でもなれなくて。
 それができないからみんな何かの代わりをして、存在意義を得ていると言う事は知っていた。
 でも、何かの代替品でも良い。それが理由でも良い。貴女とはずっとずっと『一緒』だと、そんな馬鹿げた未来を信じていた。







「クゥ、今日はありがと」

 クゥを送りがてらの帰り道、シンは微笑んで彼女にお礼を言った。久しぶりに、アキの笑った顔が見れた。それがとても嬉しい。

「いいよー。でも、アキさん疲れてたみたいだねー」
「看護師だからね。仕事は大変みたいだよ。まあ、原因はそれだけじゃないみたいだけど…」

 ふ、と苦笑してシンは冷えたクゥの手を握った。冬なのに、この子の手はいつも暖かい。羨ましい限りだ。シンの言葉に、クゥはほんの少しだけ顔を曇らせた。

「シンくん。お母さんに会いにいかない、の?」
「さあ。どうしようかな。僕が会いに行ったらアキはどうなるんだろうって……ずっとそればっかり考えてるよ」

 アキは、母さんの事が嫌いなのだ、と思ってそれをすぐさま否定した。ちがう、嫌いになりたいのに大好きだから苦しいんだ。
 あの人への面会の許可がおりてもう半月経つのに、アキは何も言ってこない。だから、シンも何も言わない。会いたいとも、会いたくないとも、アキには告げていない。
 はあ、と吐く息は白い。隣では同じようにクゥが白い吐息をもらしていて、その白が闇を淡く溶かしていた。

「シンくん」

 クゥが足を止めた。顔をあげてまっすぐに瞳を見つめてくる。シンはそれを正面から受け止めた。クゥは美人だ。高く結いあげられた髪のせいで、ほっそりとした長い首がよく映える。潤んだような黒目がちな瞳も、シミひとつない肌も、それらを目にするたびにシンは尊いものに手を触れたような気分になる。

「私はまだ、君のことをシンくんって呼ばなきゃいけない?」
「そうしてくれれば、僕は助かる」
「クラスの皆は誰もシンって呼ばないよ」

 ぷうっと頬を膨らませる。一番親しいクゥはシンという呼び名が不服なようだった。

「じゃあ、今だけ。好きなように呼んでいいよ」

 アキがいないからね。シンは笑ったけれど、クゥは笑いはしなかった。

「ハルくん」
「……」

 クゥが彼の本名を呼んだのはこれで何回目だろうか。きっと片手で足りるくらいだろう。

「ハルくんは、お母さんが嫌い?」

 シンがクゥと一緒にいるのは単純に彼女のことが好きだからだった。はっきりと意見を言う、性根と言ってもいい、まっすぐさ。シンは彼女のそこが好きだ。

「教えてよ。私には」

 投げかけられたストレートな問いに、シンはかぶりをふった。

「嫌い……て言うのと少し違うと思う」

 最初に思い出すのは、甘酸っぱいレモンジャムの味。あの人が好んだ、余り見かけない洒落たジャム。次に思い出すのは、いつも哀しげに震えていたあの人の肩。細く、支えてやらねば倒れてしまいそうな儚げな面差し。そして最後に思い出すのは、頬や腕に熱く走る、痛みだった。

「もしさ、クゥは『あなたは右手が好きですか?』って訊かれたらなんて答える?」

 シンの問いにクゥは訝しげに首を傾げてみせた。

「右手って大事だから必要だけど、好きとはちょっと違うでしょ」

 自然と繋いだ手に力がこもる。シンは続けた。

「僕にとってあの人はそんな感じ。必要だけど、好きとは違う。でもなくしたいとは思わない自分の一部」
「……そっかー」

 瞳を細めて、クゥは微笑んだ。どこか哀しそうな顔だった。そして、ゆっくりと、口を開く。

「でも、ねえ、シンくん。きっと今のキミはアキさんの為なら」



 右手は要らないって言ってしまうんだろうね。



091231

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